資本論のための発信No5号 沖縄「資本論を学ぶ会」

 将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 今回から、「第3節 価値形態または交換価値」を発信します。

 初めに、第3節の目的を示します。一つ目に「いまだかってブルジョア経済学によって試みられたことのない一事を成し遂げようと」言うこと、二つ目に「貨幣形態の発生を証明するということ、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうして最も目立たぬ態様から、そのキラキラした貨幣形態に発展していったかを追求」することで、「貨幣の謎」は謎ではないことを示すことです。

 

  第3節 の説明構成を示します。

A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態                  B 総体的または拡大せる価値形態                        C 一般的価値形態                               D  貨幣形態   の4項目になります。

 今号は、Aの 一 価値表現の両極、 二 相対的価値形態 を行います。 

 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態                           (亜麻布20エレ=上衣1着 または20エレ亜麻布は1着の上衣に値する)

 一 価値表現の両極 

(1)単純なる価値形態の中に隠されている秘密の分析は難儀である。

(2)亜麻布の価値は、上衣で表す。上衣は等価形態にある。

(3)亜麻布は能動的、上衣は受動的である。

(4)亜麻布は相対的価値形態に、上衣は等価形態にある。

(5)相関的に依存し合い、同時に相互に排除、相互に対立する極位、両極である。

(6)価値表現とは何か。亜麻布の極、上衣の極、違った商品でなければならない。

(7)「亜麻布の価値は他の商品においてのみ表現される」

(8)「等価の役を引き受けている他の商品は、みずから同時に相対的に価値形態にあるという訳にはいかぬ。この商品は自分の価値を表現しているのではない。この商品はただ他の商品の価値表現に、材料を供給しているだけである」。

(9)「同一の商品は同一価値表現において、同時に両形態に現われることはできない。この二つの形態は、むしろ対極的に排除し合うのである」

(10)どの商品があの極、その極に、行くかは「ある商品がその価値を表現するものであるか、それともその商品によって価値が表現されるものであるか、にかかっていること」、必然的な偶然であるということでしょうか。

 

二 相対的価値形態 a 内実 b 量的規定性

 

 相対的価値形態の内容は、内実と量的規定性は一つのものとして捉えるべきでしょうが、「内実」と「量的規定性」を別々に論じています。

 「どういうふうに一商品の単純なる価値表現が、二つの商品の価値関係に隠されているかということを見つけ出してくるためには、価値関係を、まず量的側面から独立して考察しなければならぬ。人は多くの場合正反対のことをやっている。そして価値関係の中に、ただ二つの商品種の一定量が相互に等しいとされる割合だけを見ている。人は異種の物の大きさが同一単位に約元されて後に、初めて量的に比較しうるものとなるいうことを忘れている。同一単位の表現としてのみ、これらの商品は同分母の、通約しうる大きさなのである」。

 

 「同一単位に約元」されていく順序を追ってみよう。                              

      ①方程式の基礎 ⇒ ②しかし同一の役割を演じない ⇒ 

      ③亜麻布と『交換され得るもの』の上衣との関係表現 ⇒ 

      ④関係を結ぶと「上衣」は「価値物」に ⇒ 

      ⑤何故か「同一物」になった ⇒ 

      ⑥これで「亜麻布自身の価値」、「価値」になる ⇒  

      ⑦何故か、価値になった亜麻布は等価物の上衣に関係するから。

 途中の説明を保留して、「内実」とは一体何であるかを、最後のセンテンスを引用することで考えることにしよう。

 「価値関係を通して、商品Bの自然形態は、商品A価値形態となる。あるいは商品Bの肉体は、商品Aの価値鏡となる。商品Aが商品Bを価値体として人間労働の体化物として

これに関係することにより、商品Aは、使用価値Bを、それ自身の価値表現の材料とするのである。商品Aの価値は、このように商品Bが使用価値に表現されて、相対的価値の形態を得るのである」と、言うのが「内実」でしょうか。

 途中保留したところの気になる部分を引用すると、「「人間労働の凝結物としての亜麻布価値を表現するためには、それは亜麻布自身とは物的に相違しているが、同時に他の商品と共通に亜麻布にも存する『対称性』として表現されなければならぬ。課題は解決されている」。

 

 今度は「量的規定性」を論じます。何を持って、量的規定なのか追及することか。 方程式には、「同じだけの労働が加えられている、または同一の大きさの労働時間がかけられているということ」を前提として考えるが、「労働時間」は生産力における一切の変化ととともに変化する」ので、「変化の影響」を細かく研究される。

 1、「亜麻布の価値は変化するが、上衣価値は不変であるとする場合」。すると、「亜麻布20エレ=上衣1着の代わりに、亜麻布20エレ=上衣2着という式を持つ」

 2、「亜麻布の価値は不変であって、上衣価値が変化する場合」。すると「亜麻布20エレ=上衣という式の代わりに、亜麻布20エレ=上衣1/2着という式を得る」。

 3、「亜麻布と上衣の生産に必要な労働量は同時に同一方向に同一割合で変化することもある」すると「価値がどんなに変化しても依然として亜麻布20エレ=上衣1着」

 4、「価値は、同時に同一の方向に変化するとしても、違った程度に変化する場合、または反対の方向に変化する場合などがある。一商品の相対的価値に対する、この種類のあらゆる可能な組合せの影響は、簡単に1、2、3の場合の応用によって明らかになる」。

 「量的規定」とは、生産力の変動に応じて、いろいろあり、それにより方程式の両極のあいだに量が変わり、方程式の量的関係が変わるということだろうと思います。

   次回は引き続き、第3節のAの「三 等価形態」を発信します。

 

資本論のための発信No4号 沖縄「資本論を学ぶ会」

 将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 今回は、「第2節 商品に表された労働の二重性」を発信します。

何故、第2節の項目を設けられたのか。マルクスは、「商品に含まれている労働の二重の二面的な性質は、私が初めて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理解があるのだから、この点はここでもっと詳細に吟味しなければならない」と、設けた理由を挙げています。「労働の二重性」が跳躍点であり、それなしには経済学はあり得ないと言っています。

 分析は、一着の上衣と10エレの亜麻布をとり、亜麻布=W、上衣=2Wとする。上衣は使用価値であり、「生産的活動」は、「目的、作業法、対象、手段及び成果」による使用価値を産み出した労働を「有用労働」と名づけています。           有用労働からは、「上着と亜麻布」、「裁縫と機織」が「質的に違った使用価値」「質的に違った有用労働の生産物」であることから、上衣と亜麻布は「商品として相対する」ことができるようになります。                               使用価値に関係することは、有用労働だけではなく、「社会的分業」もあり、それは「商品生産の存立条件」としています。「社会的分業」によって、「独立的でお互いに分かれている私的労働の生産物」だけ商品になり、二つの商品は相対することができるところにあります。私的労働による社会的分業により、商品が出会うチャンスがあるのです。もし分業がなければ、商品は現れるでしょうか。現れないと言っています。

 以上記述したところから、「もし(商品の)使用価値に質的に違った有用労働が含まれていないとすれば、使用価値は商品として相対」できない。私的に独立に業をなす段階の各々に違った「有用労働」の「質的な相違」を持つなら、「社会的分業」が発展していくことだと思います。強調されるべきは「有用労働」と「社会的分業」でしょう。    使用価値に関する「有用労働」についてさらに、「使用価値の形成者として、有用なる労働としては、労働はすべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を人間の生活を媒介するための永久的自然条件」の役割を果たしています。

 まとめとして、「上衣、亜麻布などの使用価値、簡単に商品体は、自然素材と労働という二つの要素の結合である」と、人類が材料を生み出し発展してきたことを誰もが知っている。その中から「使用価値」をピックアップし、特殊資本主義の「価値」を結びつける発想、たわいも無い事から偉大なる発明が行われるような「経済学」を築き上げたことに驚きであります。

 

 今度は、難しいのか易しいのか、の「商品価値」に画面が変わります。

 

 前に示した亜麻布Wと上衣2Wは、そんなことはたわいもなく、量的に違うだけで関心を引くものでありません。商品を厳密に調べていけば、ごまんとありますね。  「価値として、上衣と亜麻布とは同一実体の物であり、同一性質の労働の客観的表現である。しかしながら、裁縫と機織とは質的に違った労働である」ということから何を導くのだろうか、と考えていきます。                      「労働の有用な性格を見ないとすれば、労働に残るものは」何ですか。「裁縫と機織とは」「ともに人間労働」からの形態とは何でしょうか。答えるべきは「商品の価値は、人間労働一般の支出」だということであります。

 それから、「労働一般の支出」のことから出てくることは、「単純な労働力」と「複雑労働」であり、「単純な労働力の支出」は、「すべての普通の人間が特別の発達もなく、平均してその肉体的有機体の中に持っている単純な労働力の支出である」と定義されました。「複雑労働は、「複合された単純労働」「複雑労働のより小なる量は、単純労働のより大なる量に等しくなる」と定義されます。以下では簡単のため「単純労働力」を分析の手段とすることになります。

 

 前提条件を終えたところで、「上衣や亜麻布という価値は」「有用なる形態である裁縫や機織の相違から抽象されている」ことから始め、「上衣や亜麻布と言う価値が」「ただ人間労働力の支出となっている」と明らかにし、使用価値の「労働が上衣や亜麻布価値の実体であるのは、ただそれらの特殊な質から抽象され、両者が同じ質、人間労働の性質をもっている限りにおいてである」と振り返りました。

 価値は、「人間労働の性質」、いわゆる「質」だけにとどまるものではありません。「上衣と亜麻布とは、ただ価値そのものだけであるだけでなく、一定の大きさの価値である」こと、W=2Wと言う関係、「上衣の生産には、労働力が亜麻布の生産に比べて2倍の時間、支出されなければならぬということ」を示すものです。「一定の大きさの価値」つまり「量」というのが、これらの「資本」の分析の段階にどのような関係があるでしょうか。今の段階で、私には皆目予想することもできません。資本分析の中で見つかるでしょうか。

 

 そこで、使用価値と価値の比較定義をしましょう。               *使用価値について、「商品に含まれている労働がただ質的にのみ取上げられている」「労働は如何になされるかということ、何を作るかということが問題である」。   *価値の大きさについて、「労働はすでに労働であること以外に何ら質を持たない人間労働に整約されたのち、ただ量的にのみ取上げられている」「労働のどれだけということ、その時間継続ということが問題」と分担作業があるかごとく商品を構成します。 *両方のことから、「ある商品の価値の大きさは、ただそれに含まれている労働の定量をのみ表しているのであるから、商品はある割合を持ってすれば、常に同一の大きさの価値でなければならぬ」とまとめられました。

 

 まとめられたことを、「例えば」で説明しているのを、引用します。      「一着の上衣の生産に必要な一切の有用労働の生産力が不変であるとすれば、上衣の価値の大きさは、それ自身の量とともに増大する」とうのは簡単ですね。次の過程を提起する。「しかしながら、一着の上衣の生産に必要な労働が2倍に増大するか、または半分だけ減少すると言う場合を仮定しよう」。                   前の場合と後の場合は「有用労働は依然として同一の品質に留まって」いるというのですが「その生産に支出されている労働量は変化している」と、どういう理由になるのでしょう。

 

 より高まった生産力が発揮されるなら、労働力の支出は少なくなるが、生産を増えるというようなことはよく聞くような話ではあります。説明はどうなるでしょうか。 「より大きな量の使用価値は、それ自身としてはより大きな素材的富をなしている」「だが素材的富の量が増大するのに対しては、その価値の大きさの同時的低下ということが相応じる。この相反する運動は、労働の両面的な性格から生じている」と説明されるのは、素材の量と価値が比較され、一方は増大、他方は低下し、相反運動は、節の主題である「労働の二重性」から生まれると言っています。ここは生産力に関わります。

 

 「有用労働は、その生産力の増大あるいは低下と正比例して、より豊富な生産物源泉となれば、より貧弱なそれともなる。これに反して、生産力の変化は、価値に表されている労働をそれ自身には、少しもふれるものではない」。             さらに、「生産力は、労働の具体的な有用な形態がもっているものであるから、労働がこの具体的な有用な形態から抽象されるや否や、当然にもはや労働にふれることはできない」。それで結論を「同一の労働は、同一の期間に生産力がどう変化しようと、常に同一大きさの価値を生む」のです。                      「生産力は、同一期間に違った量の使用価値をもたらす。生産力が増大すればより多くそれが低下すればより少ない。労働の生産度を増大させ、これによってもたらされる使用価値の量を増加させる同じ生産力の変化は、このようにして、もしこの変化がその生産に必要な労働時間の総計を短縮するならば、この増大した総量の価値の大きさを減少させる。逆の場合は逆となる」。

 最後のセンテです。「労働」と「価値」、「使用価値」への関係のまとめです。 「すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である。 そして、この同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の属性において、労働は 商品価値 を形成する。                            すべての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そして、この具体的な有用労働の属性において、それは 使用価値 を生産する」。

 次号は「第3節 価値形態または交換価値」を発信します。 

資本論のための発信No3号 沖縄「資本論を学ぶ会」

将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 資本論は、第1巻「資本の生産過程」、第2巻「資本の流通過程」、第3巻「資本の総過程」が論じられています。第1巻はどのようにして生まれるのか、を解き明かします。まず第1巻の中で、特に「価値論」は重要であり、理解を深める必要があります。始めるにあたって、第1版の序文から学ぶヒントを紹介しましょう。

 

 「何事も初めが難しい、という諺は、すべての科学にあてはまる。第1章、特に商品の分析を含んでいる節の理解は、最大の障害となるであろう。そこで価値実体と価値の大きさとの分析をより詳細に論ずるにあたっては、私はこれをできるだけ通俗化することにした。完成した態容を貨幣形態に見せている価値形態は、極めて内容に乏しく単純である。ところが、人間精神は2000年以上も昔からこれを解明しようと試みて失敗しているのに、他方ではこれよりはるかに内容豊かな、そして複雑な諸形態の分析が、少なくとも近似的には成功しているという訳である。なぜだろうか? 出来上がった生体を研究するのは生体細胞を研究するより優しいからである。その上に、経済的諸形態分析では、顕微鏡も科学的試薬も用いる訳にもいかぬ。抽象なるものがこの両者に代わらなければならぬ。しかしながら、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である。素養のない人にとっては、その分析はいたずらに小理屈をもてあそぶように見えるかもしれない。事実上、この場合の関わるところは細密を極めている。しかし、それはただ顕微鏡的な解剖で取扱われる問題が同様に細密を極めるのと少しも違ったところはない。価値形態に関する節を除けば、この書には難解だという非難を受けるようなところがあるとは思えない。私はむろん何か新しいことを学び、したがってまた、自分で考えようと志す読者を想定しているのである。

 

 「起こりうる誤解を避けるために一言しておく。私は、資本家や土地所有者の姿を決してバラ色の光で描いていない。しかしながら、ここでは、個人は経済的範疇の人格化であり、一定の階級関係と階級利害の担い手である限りにおいてのみ、問題となるのである。私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしてしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟(ひっきょう)その造出物に他ならないものであるからである」。

 

 第1章の商品の構成は、第1節商品の二要素、第2節商品に表せられた労働の二重性、

第3節価値形態または交換価値、第4節商品の物神的性格とその秘密、によって構成されている。

 資本論は、商品の二要素、使用価値と交換価値を明らかにすることから始めますが、その前に商品の分析を行う理由を次のように説明している。

 「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、『巨大な商品集積』として現われ個々の商品はこの富の成素形態として現れる」からとする。

 次に商品とは、「人間の何らかの種類の欲望を充足させる一つの物である」「鉄、紙などのような一切の有用なる物は、質と量に従って二重の観点から考察されるべきである」「色々な方面に役に立つことができる」「有用なる物の量を測る社会的尺度を見出すこと」、などと表現しています。

 

 そこから「使用価値」とは何であり、どのような「物」なのかを明らかにします。 使用価値にするものは、「一つの物の有用性」、「商品体の属性によって限定されていて、商品体なくして存在するものではない」、「商品体自身が鉄、小麦、ダイヤモンドなどと言うように」、「使用価値を考察するに際しては、常に1ダースの時計、1エレの亜麻布、1トンの鉄などと言うように、確定した量が前提される」、「使用価値は使用または消費される事によって実現されっる」、「使用価値は素材的内容をなしている」「これから考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時にーー交換価値の担い手をなしている」、と多様な説明がなされています。

 

 次に「交換価値」についての説明です。詳細説明の前に簡単な説明を行っています。「交換価値は、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として、時と場所に従って、絶えず変化する関係する関係として現れる」とし、それから詳細説明に入ります。扱われる商品は、1クォーター小麦、x量靴墨、y量絹、z量金、などです。交換価値の説明の流れを記述に従い順序よく行い、じっくり考えながら内容を把握します。

 「雑多な割合で交換される」⇒「x量靴墨などは相互に置換えできる価値」    ⇒「同一の妥当なる交換価値は一つの同一物を表す」               ⇒「交換価値はそもそもただそれと区別されるべき内在物の表現様式、『現象形態』であるにすぎない」                               ⇒「二つの商品、例えば小麦と鉄とをとろう」⇒「一つの方程式として表す」    ⇒「与えられた小麦量は、何らかの量の鉄に等置される、例えば1クォーター小麦=aツェーントル鉄に」                              ⇒「この方程式は何を物語るか?」⇒「二つの異なった物に、1クォーター小麦にも、aツェントネル鉄にも、同一大きさの共通なものがる」⇒「二つのものは第三のものに等しい。この第三のものは二つのもののいずれでもない」             ⇒「両者のは交換価値である限り、第三のものに整約されるものでなければならない」⇒「商品の交換関係をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象である」                                 ⇒「交換関係の内部においては一つの使用価値は、他の各使用価値と適当の割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる」                  ⇒「使用価値としては商品は、異なれる質のものである」             ⇒「交換価値としては商品は量を異にするだけのものであって使用価値を含んでいない」                                     ⇒「もし商品体の使用価値を無視するとすれば、諸品体に残る属性はただ一つ労働生産物という属性だけである」                           ⇒「使用価値から抽象するならば、労働生産物を使用価値たらしめる物体的な組成部分や形態からも抽象することになる」                       ⇒「それはもはや、有用な何物でもなくなっている。すべての感覚的性質は解消している。それはもはや、指物労働の生産物でも、建築労働や紡績労働やその他何か一定の生産的労働の生産物でもない。労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表されている労働の有用なる性質は消失する」                       ⇒「これらの労働の異なった具体的な形態も消失する。それらはもはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働に整約される」    ⇒「労働生産物の残りを調べてみよう」                     ⇒「無差別な人間労働の、言い換えればその支出形態を考慮することのない、人間労働力支出の単なる膠状物(こうじょうぶつ)という以外に、労働生産物から何物も残っていない。これらの物はただ、生産に人間労働力が支出されており、人間労働が累積されているということを表しているだけである」                   ⇒「これらの物は、お互いに共通な、社会実体の結晶として、価値ー商品価値である」

 長々と流れを追い、使用価値から抽象し、抽象し尽くして、抽象的人間労働、これが交換価値です、と辿り着きました。引き続き「交換価値」とはな何かの後半部分を追いかけます。

⇒「このようにして、一つの使用価値または財貨が価値を持っているのは、ひとえに、その中に抽象的に人間的な労働が対象化されているから、または物質化されているからである」                                   ⇒「財貨の価値の大きさはどうして測定されるか?」               ⇒「その中に含まれている『価値形成実体』である労働の定量によってである。労働の量自身はその継続時間によって計られる。そして労働時間には、また時、日などのような一定の時間部分として尺度標準がある」                    ⇒「個人的労働力の各々は、それが社会的平均労働力の性格をもち、またこのような社会的平均労働力として作用し、一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間のみを用いるという限りにおいて、他のものと同一の労働力なのである」                                   ⇒「社会的に必要労働時間とは、社会的に正常な生産条件と労働との熟練と強度の社会的平均度をもって、何らかの使用価値を造り出すために必要とされる労働時間である」⇒「そんなわけで、ある使用価値の価値の大きさを規定するのは、ひとえに社会的に必要な労働の定量、またはこの使用価値の製造に社会的に必要な労働時間にほかならないのである」                                  ⇒「同一労働時間に制作される商品は、同一の価値の大きさをもっている。ある商品の価値の他の商品のそれぞれの価値に対する比は、ちょうどその商品の生産に必要な労働時間の、他の商品のそれぞれの価値に対する比に等しい」             ⇒「価値としてはすべての商品は、ただ凝結せる労働時間の一定量であるにすぎない」                                     ⇒「この労働時間は、労働の生産力における一切の変化とともに変化する」     ⇒「労働の生産力は、種々の事情によって規定される」              ⇒「一般的に言えば、労働の生産力が大であるほど、一定品目の製造に要する労働時間は小さく、それだけその価値も小さい」                     ⇒「逆に、労働の生産力が小さければ、それだけ一定品目の製造に必要な労働時間は大きく、それだけその価値も大きい」                       ⇒「従ってある商品の価値の大きさは、その中に実現されている労働の量に正比例し、その生産力に逆比例して変化する」

 後半部分で協調することは、「価値の実体を成す労働」とは何か。それは「等一の人間労働」「同一人間労働力の支出」「社会的平均労働」「社会的に必要な労働の定量」「社会的に必要な労働時間」「凝結せる労働時間の一定量」と表現される。次回は、「第2節商品に表された労働の二重性」を行います。

 

資本論のための発信No2号 沖縄「資本論を学ぶ会」

  将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 

 資本論第1巻 資本論の生産過程 第6篇労働賃金 第17章「労働力の価値または価格の労働賃金への転化」を発信します。

 労働賃金とは何かと、紐解くにあたって、「商品の価値とは何か? 生産において支出される社会的労働の対象的形態である。何によって、商品の価値を測るか?その中に含めれる労働の大きさによってである。何によって、商品の価値を測るか?その中に含まれる労働の大きさによってである。12時間の労働日の価値は、何によってである、これは馬鹿げた同義反復である」。

 理解するためには、商品の価値とはどのようなものであるか、資本主義経済を理解するに、必須であることを強調しています。突然「労働賃金」から始めても簡単ではなく難しいでしょう。あえて「労働賃金」から始めたのは、資本論は論理組み立ての世界でもあることを理解するためです。価値はあらゆるところに潜み、それの理解なしにやれば怪我をする、理解しがたいということです。

 それで、本章では中心的なことに、絞った説明でどれだけのことが理解できるか検討することにしました。

 11パラにおいて、「労働の価値というのは、労働力の価値を意味する不合理な表現に過ぎないのであるから、おのずから労働の価値は、常にその価値生産物よりも小でなければならない、ということになる」。

 そして、「労働賃金という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに、支払労働と不払労働とに別れたることのすべての痕跡を消し去る。全労働が支払労働として現れる」

 賦役労働⇒「賦役労働者の自分自身のための労働と領主のための強制労働とは、空間的及び時間的に極めて明瞭に感覚的に区別される」。

 奴隷労働⇒「奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するにすぎない労働日部分、彼が事実上自分自身のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現れる。彼の全労働が不払労働として現れる」。

 賃金労働⇒「剰余労働または不払労働さえも、支払労働として現れる。かの場合には所有関係が奴隷の自分自身のための労働を隠蔽し、この場合には、貨幣関係が賃金労働者の無償労働を隠蔽するのである」。

 「かくして、労働力の価値と価格を労働賃金の形態に、あるいは労働そのもの価値と価格に転化させることの、決定的重要性が理解される。現実の関係を隠蔽して、その正反対を示すこの現象形態こそは、労働者と資本家のあらゆる法律的観念、資本主義的生産様式のすべての瞞着、そのあらゆる自由の幻想、俗流経済学のすべての弁護論的空論が、その上に立つ基礎なのである」。

 16パラにて、「さらに、交換価値と使用価値とは、それ自体としては通約されない大きさであるから、『労働の価値』『労働の価格』という表現が『綿花の価値』『綿花の価格』という表現以上に不合理であるとは見えない。その上に労働者は彼がその労働を供給してしまってから支払いを受ける、ということが加わる。そして貨幣は支払手段としてのその機能においては、供給された物品の価値または価格を、供給された労働の価値また価格を後から実現する。最後に、労働者が資本家に供給する『使用価値』は、実際には、実際には彼の労働力ではなく、労働力の機能、一定の有用労働であり、裁縫労働、製靴労働、紡績労働などである。同じ労働が他の一面から見れば、一般的価値形成要素であることは、労働をすべての他の商品から区別する属性なのであるが、普通の意識の領域に入らないのである」。

 18パラは、資本家の立場です。「彼が実際上、関心を持つのは労働力の価格と、労働力の機能が作り出す価値との差額のみである。しかし、彼はすべての商品を能う限り、安価に買おうとするのであり、常に彼の利潤を、価値以下での購買と価値以上での販売という単純な欺瞞から説明する。彼は労働というものが現実に存在して、彼がこの価値を現実に支払うものとすれば、資本なるものは存在せず、彼の貨幣は資本に転化はしないであろう、という見解には到達しないのである」。

 本章の最後のパラにて、「労働賃金という現象形態については」「科学によって発見されねばならない」とし、「古典派経済学は、真実の事態に迫っているが、これを意識的に明確に表現していない。それがブルジョア的外被を脱しない限り、そうすることはできないのである」と、現代の俗流経済学においても、目の前に見える現象を追いかけっこし、本質を追求することに無頓着である。

 次回から、第1巻 第1篇 商品と貨幣、第2篇 貨幣の資本への転化 を進めていきます。資本論で最も基礎的な部分なのですが、商品と貨幣は抽象的で理解するに難儀するところです。細切れに発信することになります。

資本論のための発信No1号 沖縄「資本論を学ぶ会」

 将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 

労働者に対する搾取はどこから来るのですか? なぜ資本は歴史に現われたのですか?

資本とは何ですか? 資本は何を求めているのですか? 究極の目的は剰余価値です!

 剰余価値はどのようにして生まれるのですか? 生産手段と労働力を合体させて生産物を生み出し、そのなかに剰余価値を潜ませ、生産するために消費した生産手段の減耗分、資材など費用を、商品として売り出されたとき剰余価値が実現されることになります。生産手段は物理的な機械にすぎません。それにかかる維持費用は価格として補填されるに過ぎません。機械だけでは剰余価値は生まれません、ちまたでは資本と呼ばれています。動かない機械からは剰余価値はビタ一文出てきません。当たり前の馬鹿なことを言っていると思いでしょうが、ならば資本家にとって必要なものは何でしょうか。この資本主義社会では馬鹿な人間でも誰でも判り切ったことです。古代、封建時代には居なかった労働者なのです、いやだが政治的自由を獲得した社会のなかで、生身の人間、労働者を引っ張って来て「こき使う」ことができないはずです。資本家が欲しがるのは1日のうち何時間が働いてもらうことで、あなたの労働力を時間当たりで契約しますよと、奴隷市場ではなくて労働市場に出向くのです。さすれば労働者は寄って来て働きますと、平等という名の契約を結ぶことで安堵の心で生きるということになるのです。

ここで疑問を提示することは、政治的平等が与えられた素晴らしき社会と、憲法には人間として最低限の生活保障とか素晴らしいことが書かれていますが、なぜ人間が「労働賃金」を受取る生活を余儀されるのか? なぜこれが当たり前と思うのか。要するに労働者は「労働力」以外の生きるための「物」は何一つ持っていない。どうして「労働力」を「売り買い」するものに成り下がるのですか。資本家は腹黒く、よく知っているのです、資本とは剰余価値を利潤を産みだしてくれる「労働力」こそが「資本」なのだということを、最新鋭の機械をサビないように「労働力」を指揮監督し、「資本」の維持管理を、つまり社会をも維持管理しているのです。さらに「生産手段」を資本家が独占しているのですか? と提示しておきます。

 資本主義生産体制の矛盾、例えばなぜ人間が「賃金労働」でなければならないのか、疑問を疑問とも思わない人々、労働者の中にもいるであろう人々にも問いを発信続けます。材料はマルクス資本論を学ぶことを通してやっていきます。「資本論を読む会」を組織することも考えています。資本論を読んでみたいと希望する人を歓迎します。

{資本主義生産によって人類の「生産力」を高めた歴史的意義とともに、これ以上の利潤目当ての生産力の発展は限界にある、今まさに死滅しつつある資本主義生産体制を歴史から除かない限り、人類は生きられるであろうか!}