資本論のための発信No12号  沖縄「資本論を学ぶ会」

  将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!        

 今号は、「第3章 貨幣または商品流通」です。内容は三項目に分かれます。     第1節「価値の尺度」、第2節「流通手段」、第3節「貨幣」、の項目です。    第2節は、「a 商品の変態」、「b貨幣の流通」、「c鋳貨 価値標章」に分かれ、第3節は、「a貨幣退蔵」、「b支払手段」、「c世界貨幣」に分かれます。各章各節とも、箇条書的に、簡略的に行います。

 第1節の「価値の尺度」とは、何か、何を示すものか、如何なる機能をはたすのか、を見て行きましょう。ここでは「金が貨幣商品である」とされています。現代では、金の束縛から逃れるために、金は貨幣として使われていませんが、経済の背後にある論理性を解き明かしていくには重要なポイントです。それは現代の資本主義を論じるには、基本認識であり、単なる資本だけでなく、「総資本」というものも含めて、より接近していくこと、理解すること、はできないのです。内容を列挙していきましょう。

①「金の第一の機能は商品世界に対して、価値表現の材料を提供し、商品価値を同分母を持つ大きさ、すなわち質的に等一で、量的に比較のできる大きさとして表示する」。                                    ②「価値尺度としての貨幣は商品の内在的な価値価値尺度である労働時間の必然的な現象形態」として現れる。                                  ③「ある商品の金における価値表現ーーA商品x量=貨幣商品y量ーーは、商品の貨幣形態であり、またその価格である」。                       ④「貨幣は、その価値尺度の機能においては、ただ観念となった貨幣、または理念的の貨幣としてのみ用いられる」。                         ⑤「すべての金属流通においては、既存の重量尺度標準の名称が、貨幣尺度標準、すなわち価格の尺度標準の最初の名称ともなっている」。               ⑥「価値の尺度として、また価格の尺度標準として、貨幣は二つの違った機能を行う。貨幣は、人間労働の社会的化身として価値の尺度である。確定した金属重量としては、価格の尺度標準である」。                           ⑦「歴史的過程によって、金属重量の貨幣名が、その通常の重量名よりも分離してしまうことは、民族的慣習になってくる。価値尺度標準は、一方で純粋に伝承的のものであり、他方では一般的に通用することを必要とするのであるから、ついには法的に規制される。貴金属の一定の重量部分、例えば1オンスの金は、公的に加除部分に分割され法的な名称を受ける」。                             ⑧「価格は商品に対象化されている労働の貨幣名である。商品と、自らの名を商品の価格としている貨幣定量とが、等価であると言うことは、同じ言葉の反復である」。

 第2節 流通手段の「a 商品の変態」に移ります。箇条書き風に示します。   ①「全過程を、その形式的側面から、ただ商品の形態変化または社会的代謝を媒介する、その変態をのみ考察しなければならぬ」。                                    ②「ある商品の形態変化は、普通の商品と貨幣商品の交換において行われる」。   ③「交換過程は、・・・、外的な対立を生じせしめる。・・・。商品のこれらの対立的な形態は、その交換過程の現実的な運動形態である」。              ④「商品の交換過程、商品ー貨幣ー商品、WーGーW。WーGは第一の変態または売り」⑤「GーWは商品の第二、または終局変態、買い。貨幣はすべての他の商品の脱皮した姿、またはその一般的な売渡しの産物であるから、それは、絶対的に売渡しうる商品である」。                                    ⑥「売る手や買い手になることは、固定した役柄ではなくて、商品流通の内部で絶えず人を交替させる役柄である」。                         ⑦「一商品の循環をなす二つの変態は、同時に二つの他の商品の逆の部分変態をなす。   各商品の変態序列が描く循環は、他の商品の循環と入り混じっていて解けない。総過程は商品流通として表われる」。                         ⑧「流通は、生産物交換の時間的、場所的及び個人的な限界を打ち破るのであるが、それはこうしてである、すなわち、流通そのものが、自分の労働生産物を交換に出し、他人のそれと交換して来るという生産物交換に存する直接の一致を、売りと買いの対立に分裂させることによってである」。「商品の変態」はend

 b 貨幣の流通・・・・どのような役割を担うのでしょうか。          ①「一商品所有者の手から他の商品所有者のそれへと行く貨幣の行路である。流通」。                                    ②「貨幣運動が、商品流通の表現にすぎないのであるが、逆に商品流通は貨幣運動の結果としてしか現れない」。                           ③「他方において、貨幣に対してはただ流通手段の機能だけが与えられる。・・・・。同一商品の相対立した両形態変化は、このようにして、反対の方向に向かってなされる貨幣の二度の地位変更に反映される」。                     ④「貨幣は流通手段としては、絶えず流通部面に棲息していて、絶えずここで動き回っている。この部面は、どれだけの量の貨幣を絶えず吸収するかという問題が生ずる」。⑤「このようにして、流通手段の量は直接に商品の価格につれて変化する」。    ⑥「流通手段の量は、実現せられるべき商品価格総和によって規定される。商品量を与えられたものと前提すれば、流通貨幣の量は、商品の価格動揺とともに増加したり、減少したりする。流通貨幣量は商品の価格総和が、その価格変動のために増大するか、または減少するかしたために増加したり減退したりする」。             ⑦「貨幣流通の速度ということは、商品の形態変化の速度、変態序列の継続的な絡み合い、速い物質代謝、商品の流通部面からの急速な消失と、新たな商品によるその同じく急速な代置が行われることなのである」。                    ⑧「三つの要素、価格運動、流通せる商品量、最後に貨幣の流通速度は、各種の方向に、各種の比率で変化しうる。実現せられるべき価格総和、これによって決定された流通手段の量は、極めて多数の組合せで、できている」。貨幣の流通end

 c 鋳貨 価値標章                             ①「貨幣の流通手段としての機能から鋳貨態様が生まれる」。           ②「造幣局からの道は同時に溶解鍋への道である」。               ③「貨幣流通自身が、鋳貨の名目含有量から実質含有量を分かち、その金属存在を、その機能的存在から分かつとすれば、貨幣流通は、金属貨幣がその鋳貨機能において、他の材料から成る徴標あるいは象徴によって置換えられる可能性を潜在的に含んでいる」④「その鋳貨機能は事実上、その重量から、すべての価値から独立したものとなる。金の鋳貨実在は、その価値実体から分離される。こうして紙券が金の代わりに鋳貨として機能しうるのである」。                            ⑤「ここで問題となるのは、ただ強制通用力をもっている国家紙幣だけである。それは直接に金属流通から成長してくる。これに反して信用貨幣は、我々にとって単純な商品流通の立場からは、まだ全然わかっていないはずの諸関係を前提する」。〔信用に関する篇においてであるから当然です〕                       ⑥「紙幣流通の特殊法則は、ただその金に対する代表関係からしか出てこない。紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表示されている金が現実に流通しなければならぬ量に限定されるべきであるというのである。そこで流通部面が吸収しうる金量は常にある平均水準以上または以下に動揺するのであるが、与えられた一国においては、流通する媒介物の量は、経験的に確定される一定の最少量を下回ることはない」。        ⑦「紙幣は金標章または貨幣標章である。紙幣は他の一切の商品の一定量と同じようにまた価値の一定量でもある金の一定量代表する限りにおいて、価値標章である」。  ⑧「最後に何故に金は、単なる無価値の自分自身の標章によって、置換えることができるか? という問題がある。・・・。貨幣の機能的な存在が、いわばその物質的な存在を吸収する。商品価格の瞬過的に客観化された反射であるから、貨幣はなお、ただ自分自身の標章として機能し、標章によっても置換えられる。ただ貨幣の標章は、それ自身客観的に社会的に通用しうるということが必要となる。そして紙券象徴はこれを強制流通力によって得るのである。この国家強制が行われるのは、一公共体の境界線の示す流通部面、・・・、また貨幣が流通手段として、または鋳貨としてのその機能に解消することができるのも限られた流通部面だけのことである。ここでだけは紙幣となって、その金属実体から外的に分離された、単に機能的な存在っ様式を得ることができるのである」。鋳貨 価値標章end

 第3節 貨 幣

「金の機能が金を唯一の価値態様として交換価値の唯一の妥当なる存在として、単なる使用価値としての他の一切の商品に対して固定する」。              a 貨幣退蔵                                 ①「貨幣は変態序列が中断され、売りがこれに続く買いによって補足されないようになると直ちに不動化する。鋳貨から貨幣に転化される」「金蛹を確保するという必然と熱情が発展してくる」「貨幣は退蔵貨幣に固定化する」「商品の売り手は貨幣退蔵者になる」。                                    ②「まさに商品流通の当初に貨幣に転化されるのは、使用価値の剰余だけである。金と銀とは、自ら剰余または富の社会的表現となる」。                ③「商品生産がもっと発達するとともに、すべての商品生産者は何よりも先立つものを『社会的質権』を確保しなければならぬ」。                   ④「貨幣退蔵者の衝動はその本性上とめどがない。質的に、形態上、貨幣は無制限である。素材的富の一般的な代表者である」。                    ⑤「勤勉と節約と吝嗇は、その主徳をなしている。多く売って少なく買うということが、彼の経済学のすべてである」。                       ⑥「金商品や銀商品の所有も進む。これはブルジョア社会の富と共に増大する」。  ⑦「貨幣退蔵は金属流通の経済機構の中で、いろいろの機能を果たす。・・・。退蔵貨幣貯水池は、同時に流通貨幣の流出流入の水路として役立つ。だから、このような貨幣がその流通水路から溢れ出るようなことは決してない」。

 b 支払手段・・・「商品流通の発達とともに、商品の売渡しはその価格の実現から時間的に分離されるという関係が発達してくる」。                   ①「売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。商品の変態、またはその価値形態の発展は、ここで変化しているのであるから、貨幣もまた一つの他の機能を得る。貨幣は支払手段となる」。                             ②「貨幣形態ーーそして債権者と債務者の関係は貨幣関係の形態をとるーーは、ここではただ、もっと深いところにある経済的生活条件の敵対関係を反映しているすぎない」。                                    ③「商品流通の部面に帰ろう。貨幣は第一に契約上確定された価格は、買い手の義務を、彼が一定の期間債務を負う貨幣額を示すものになっている。第二に、貨幣はただ買い手の貨幣約束に存するだけであるが、商品の持ち手の変更を果たせている。支払期日になって始めて支払手段は現実に流通に入る。・・・。こうして商品の価値態様たる貨幣は、いまや流通過程自身の諸関係から生ずる社会的必然性によって、売りの自己目的となる」。                                  ④「商品は貨幣に転化する前に、使用価値に転化する。その第一の変態の完遂は後になって始めて続く」。                              ⑤「流通過程の一定の期間を見ると、債務は売りによって債務を引き起こした商品の価格総額を代表する。この価格総額の実現のために必要なる貨幣量は、支払手段の流通速度にかかっている。・・・。さらに各種の支払期日の時間の長短である。・・・。支払手段の運動はすでにその運動以前に完了して存在する社会的関連を表現する」。   ⑥「支払が同一場所に集積するようになると共に、それらの決済の独自な施設と方法とが自然発生的に発達する」。                          ⑦「支払手段としての貨幣の機能は、媒介なき矛盾を含んでいる。支払いが相殺される限り貨幣はただ観念的に計算貨幣、価値の尺度として機能するだけである」。    ⑧「信用貨幣は、直接に支払手段としての貨幣の機能から生ずる。というわけは、売られた商品に対する債務証券自身が、再び債権の譲渡のために流通するのである。他方において、信用制度が拡大されるに従って貨幣の支払手段としての機能も拡大する」。 ⑨「商品生産がある程度の高さと広さに達すると、貨幣の支払手段としての機能は、商品流通の部面を超える。貨幣が契約の一般的商品となる」。            ⑩「支払手段の流通速度に関する法則から、一切の周期的な支払いに対して、その源泉の如何を問わず、必要な支払手段の量は支払期間の長さに対して正比例の関係に立つということが生ずる」。⑪「支払手段としての貨幣が発達してくると、満期日の債務額のために貨幣蓄積を必要とするようになる。貨幣退蔵はブルジョア社会の進歩とともに、独立の致富形態として消失するが、逆にこの進歩とともに支払手段の準備基金の形態で増大する」。b支払手段end

 c 世界貨幣

①「貨幣は国内流通部面から外に出ると共に、・・・地方形態を再び脱ぎ捨てる。貴金属の本来の地金形態に帰る」。                         ②「世界貨幣は一般的な支払手段として、一般的な購買手段及び絶対的な社会的な富一般の体化物として機能する」。                         ③「各国は世界市場流通に対しても予備基金を必要とする。退蔵貨幣の機能は・・・、一部は世界貨幣としての機能から生ずる」。                   ④「金銀の流れの動きは二重である。一方では、その源泉から全世界市場の上に広がり、・・・、さらに退蔵貨幣に凝結するに至る。他方において、・・・、為替相場の不断の振動に続く運動である」。                             これで、「第1篇 商品と貨幣」は終わりです。

資本論のための発信No11号 沖縄「資本論を学ぶ会」

  将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 今号は「第2章交換過程」です。人間の労働によって作られた生産物は、単なる物ですから、私は商品になりましたと、私を買って、売ってという訳がありません。商品には「番人」=商品所有者が必要です。商品所有者が如何なる行動により商品を売買し貨幣を得る生き様を、条件を示すのです。第2章で最も言いたいことを提示しよう。     「貨幣が商品であるのを理解することよりも、商品は、いかにして、なぜに、何によって、貨幣であるかを理解することにある」。第1章第3節のA、B、C、Dを踏まえて総括的に説明している第2章を学んで行きましょう。番人とは商品所有者のことであり、「人々はここではただ相互に商品の代表者としてまた商品所有者として存在している」こと、そして背後にある経済を「叙述の進行と共に、一般に人々の経済的仮装は経済的諸関係の人格化にすぎず、この経済的諸関係の担い手として、彼らが相対しているという事をみるであろう」。                                             

 次に問題を提示、「商品は、それが使用価値として実現される前に、価値として実現されなければならない」と、第1章のどこかで見たような表現でしょうか、さてこの矛盾をどう解く。                                まずは、「商品所有者を特に商品から区別するもの」は何ですか。この「商品自身」だけで物事は進みません。「すべての他の商品体」が「商品自身」の価値を表す姿に見えるだけの事情を抱えていることです。事情は単なる事情です。しっかりした価値は見えていない。商品所有者は、使用価値をもって、目をキョロキョロして、目的に適った相手を探し、交換に成功することを目指すのです。マルクスの文章は「すべての商品は、その所有者に対しては非使用価値であり、その非所有者に対しては使用価値である。商品はこうして全般的に持ち手を換えなければならない。この持ち手変更がその交換をなすのである。そしてこの交換が商品を価値として相互に関係させる。さらにこれを価値として実現する」の後に前パラで行った問題提示の文章が続くのです。やはりマルクスの文章が洗練されています。

 しかし矛盾は解き終わらず、「商品は、それが価値として実現される前に、使用価値であることを実証しなければならない」、価値が実現されたと言ったばかりなのに、今度は使用価値を、何と、ややこしい、たら有りはしない。「商品に支出された人間労働」は他人が有用な物でなければならないと、有用な物であるかどうかは、「諸商品が交換されて初めて証明」されると来ました。一体全体、どうなるでしょうか、結論は。

 解決のヒントは、「交換」に「個人的な過程」と「社会的過程」を持込むことです。商品所有者が商品の使用価値をもって相手方に「譲渡」するのみの「個人的過程」、商品所有者が商品の「価値」、「同一価値をもっている任意のあらゆる他の商品に実現しようと」する「社会的過程」という二つの過程が提示されました。しかしながら「この同じ過程が同時にすべての商品所有者に対して、もっぱら個人的であって、同時にまたもっぱら一般的に社会的であるというようなことは」ないないと否定されました。歴史は淡々と人間の生産力を高めるために商品を生み資本を生み恐慌を生み限界を生む、将来の社会を生み出す労働者の使命を、資本主義の細部に潜んでいるのです。

 ここのところをマルクスは「詳細に」説明していきます。①「彼の商品は、また他のすべての商品の一般的な等価となる」②「諸商品は、それが価値として等置され、また価値の大きさとして比較されるべき何らの一般的相対的価値形態を持っていない。したがって、諸商品は一般に商品として対立するのではなくして、ただ生産物または使用価値として対立するのである」③「彼らは、彼らが考える前にすでに行っていた。商品性質の諸法則は、商品所有者の自然本能の中に活動していた。・・・、それを成すのに彼らは商品を、対立的に、一般的等価として何らかの他の商品に対して相関係せしめていたのである」④「ただ社会的行為のみが、一定の商品を一般的等価と成すことができる」⑤「すべての他の商品の社会的行動は、諸商品が全般的にその価値を表示する一定の商品を除外する。・・等価となる」。最後に、「一般的な等価であることは、社会的過程によって、この除外された商品の特殊的に社会的な機能となる。こうしてこの商品は貨幣となる」。交換過程を説明するに、第1章第3節を再び説明するようになっているのは何故か。次の説明段階に行くための旅路へ、論理的筋道としてであろうと考えます。それは交易関係、地理的関係が生じるところに交換のある物語は続くのです。

 「商品交換は、共同体の終わるところに、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる」と、外部へ影響しました。影響は内部に跳ね帰ってきます。「物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、直ちに、また反作用を及ぼして、共同体の内部においても商品となる」、アフリカの果て、南米の果て、世界の果てまで、ひっこりひょうたん島はゆく、です。

 次に「量的交換比率」はどうなるのですか。①「初めは偶然」それは「相互的に譲渡し合うという意思行為によって交換される」②「他人の使用対象に対する欲望は、次第に固定化する」③「交換の絶えざる反復は、これを一つの規則的な社会過程とする」④「この瞬間から、直接的欲望のための物の有用性と、その交換のための有用性との間の分裂が固定化する」⑤「使用価値は交換価値から分離する。交換される量的関係は、その生産自身に依存するようになる」⑥「習慣はそれらの生産物を価値の大きさとして固定化する」。ここは第1章第3節とは違う観点から、貨幣・金への道筋です。

 次も、「交易」と「第三商品」え絡めて、第3節価値形態と違った面からの説明となります。①「直接的な生産物交換」「交換物品」は「独立した価値形態を得ていない」②「この形態の必然性は、交換過程に入る商品数が増大し、多様化されると共に発展する」③「交易は各種の商品所有者の各種の商品が、交易の内部で同一の第三の商品種と交換され、また価値として比較されるということを必ず伴う」④「商品交換の発達とともに、一般的等価形態は、もっぱら特別な商品種に付着する、結晶して貨幣形態となる」⑤「貨幣形態は、外域からの最も重要な交換品目に付着する」⑥「貨幣形態は、一般的等価の社会的機能に適する商品、貴金属に移行する」⑦「随意に分割しえ、またその分割部分を再び合体させうるものでなければならぬ。金と銀とはこのような属性を持っている」となる流れで「金」にたどり着いたのである。結論的な文章を次に掲げる。

 「彼らの規制と彼らの意識した個人的行為から独立した彼ら自身の生産力諸関係の物財的な姿は、まず彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということの中に現われるのである。貨幣物神の謎は、商品物神の目に見えるようになった、眩惑的な謎であるに過ぎないのである」。end

資本論のための発信No10号 沖縄「資本論を学ぶ会」

  将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!       今号は、第1章の商品の「第4節商品の物神的性格とその秘密」です。この第4節は、「第1章商品」の最後にあります。ということは「商品」の意味するものの総括と受けてもいいでしょう。その「秘密」を解くことによって、資本主義社会での「商品」に対する理解を深めていきましょう。マルクスの論理展開を追って行きます。                  

 商品の分析は、使用価値という事から始めました。ここでも使用価値からみたときに「少しも神秘的なところもない」、誰でも机が「木であり、普通の感覚的な物」であることを知ります。それが机として商品となれば、「商品は気難しい物であって、形而上学的小理屈と神学的偏屈に満ちたもの」に代わるとし、「感覚的にして超感覚的な物に転化する」とも言っています。それを解釈すると、「神秘的性質」は「使用価値」「価値規定の内容」=労働時間、からではないと。何故か、一に「人間有機体の機能」の表われにすぎない。二に価値の大きさの規定=「価値規定の内容」は人間の関心事項である。三に共同になると「社会的の形態」=社会的なもの、になるのは当たり前だから不思議なことはない。

 これらは否定されました。では「性質はどこから発生するのか?」、それは「明らかにこの形態自身からである」と、わかりやすく言うと、「彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態をとる」ということです。さらに追及します。

 「性質」のあとに、「商品形態の神秘に充ちたものは」の説明がされます。説明として、「取り違えによって、労働生産物は商品となり、感覚にして超感覚的な、または社会的な物となるのである」というように言います。人間が「物」=生産物をみるとき、光からの視覚的現象は「物理的関係」でしかないので、「価値関係」とはまったく関係ないと。何と「取り違え」なのかというと、「人間自身の特定の社会的関係であるにすぎない」と。単なる「物」=「生産物」にすぎないのに、あたかもそれから「価値」が生まれる如く生ずると考えるのです。マルクはそれを「物神礼拝」と名づけました。

 資本主義とはどのような社会なのかを関連して、マルクスは「物神的性格」をいっています。「商品世界のこの物神的性格は、先に述べた分析がすでに示したように、商品を生産する労働の独特な社会的性格から生ずるのである」。それからも「資本主義」がおぼろげに解ってきます。

 さらに、「商品を生産する労働」に突っ込んでいきますと、「使用価値が一般に商品となるのは、もっぱらそれが相互に相独立して営まれる私的労働の生産物であるからである」と。

 次に「社会的総労働に」に行きます。「私的労働の複合が社会的総労働をなす」と。「私的労働は、事実上交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者達が置かれる諸関係によって、初めて社会的総労働の構成分子たることを実証する」。「彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また物の社会的な諸関係として現れるのである」。生産施設、商品を管理する資本家のもとに労働する人々が管理される、物に動かされる人間の、資本主義社会の姿がチャンプリン映画のごとく描かれるのです。

 私的労働に関する物語は続きます。前パラの「社会的総労働」がみえた時、「この瞬間から生産者達の私的労働は、事実上二重の的性格」が見えるとするのです。二重というのは、「特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、そして総労働の、社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ」ことと、「生産者達自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の有用な私的労働種と交換される限り、これと等一なるものとなる限りに充足する」という観点からみた二重となります。

 そして「価値」に関係させるのは何か、「彼らはその各種の生産物を、相互に交換において価値として等しいと置くことによって、その違った労働を、相互に人間労働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし彼らはこれをなすのである」。

 次に「生産物交換者」が興味を引く「割合」はどの時期に明らかになるのかを論じます。「相互に営まれるが、社会的分業の自然発生的構成分子として、あらゆる面において相互に依存している私的労働が継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは、私的労働の生産物の偶然的で、常に動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的に必要なる労働時間が、規制的な自然法則として強力的に貫かれること、・・・、このことを経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した商品生産が必要とされる」時に明らかになると言うのです。

 マルクスがここまで述べてきたことが、「商品の物神的性格とその秘密」の本質を突いたものと考え、「人間生活の諸形態に関する思索、また科学的分析」「ブルジョア的経済学の諸範疇」「ロビンソン物語」「ヨーロッパの中世」「農家の田園的家父長的な産業」「自由な人間の一つの協力体」「宗教形態、古代アジア的」を飛ばします。

 最後に忘れていけないこと、「経済学は」「何故にこの内容がかの形態をとり、なぜに労働が価値において、また労働時間による労働の秤量が労働生産物の価値の大きさの中に示されるのか?という疑問すら提起しなかった」と言うことを持って「第4節」は終わります。次号は「第2章 交換過程」を発信します。

資本論のための発信No9号 沖縄「資本論を学ぶ会」

  将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 今号で、「C 一般的価値形態」、「D 貨幣形態」をもって「第三節 価値形態または交換価値」は終わります。

C 一般的価値形態

      上衣1着 

      茶10ポンド 

      コーヒー40ポンド  

      小麦1クォーター     = 亜麻布20エレ

      金2オンス 

      鉄1/2トン 

      A商品x量 

      その他の商品量 

  上記の等式を意識つつ、次の一、二、三、に進みます。

 一 価値関係の変化した性格

  「一般的価値形態」の等式を眺めて、どのような評価を下しますか?

 ①「唯一の商品で示しているのであるから、単純に表している」                          

 ②「同一商品によって示しているから、統一的に表している。⇒(から)商品の価値        形態は、単純で共同的であり、一般的である」、という評価になります。

 そうすると、ここから振り返ると、単に「第一形態及び第二形態は、二つとも、一商品の価値を、商品自身の使用価値、または ”その商品体から区別した” あるものと表現するために生じたものに過ぎなかった」。

 引き続き、第一及び第二形態の評価をします。                「第一形態」は、上衣1着=亜麻布20エレ、茶10ポンド=鉄1/2トンなどを言う。「この形態が明瞭に実際に現われるのは、ただ、労働生産物が、偶然的な、そして時折の交換によって商品に転化されるような、そもそもの端緒においてである」。   「第二の形態は、第一のそれより完全に、一商品の価値を、それ自身の使用価値から区別する」。「何故か、上衣の価値は、・・・、例えば亜麻布に等しいものとして、鉄に等しいもの、茶に等しいものとして、ただ上衣に等しいものでないだけで他の一切のものに等しいものとして、、相対するからである」。上衣は上衣と等しいというのは、無意味でしょう。                                他方の観点もあります。「例えば家畜がもはや例外的にではなく、すでに習慣的に各種の他の商品と交換されるようになると、まず拡大された価値形態が、事実上出現するのである」。第一形態の偶然的な結びつきから、第二形態の統一に向かう結びつきへ進行する!                                                         

 一般的価値形態、「新たに得られた形態は、商品世界の諸価値を、同一なる、この世界から分離された商品種で表現する」。こういうことから、何がわかるでしょうか。  ①「亜麻布で、すべての商品の価値を 亜麻布 と等しいということを示す」    ②「一切の使用価値から区別される」                      ③亜麻布、「この商品とあらゆる商品とに共通なるものとして表現される」。                          

結論は次に、「この形態に至って初めて現実に、商品を価値として相互に相関係させ、またはこれらを相互に交換価値として表われさせるようになる」。要するに一般的価値形態になりましたと理解していいか、等式を眺めて思考を巡らしましょう。             

 次は、さっき論じた「二つの形態」と「一般価値形態」との比較を論じています。「先の二つの形態は、・・・・・、いずれにしても一商品ごとに表現するのである。両場合とも、・・・、個々の商品いわば私事である。そして、個々の商品は他の商品の協力なしにこの事をなすのである。他の諸商品は、先の一商品に対して等価形態という単なる受動的の役割を演ずるのである」。商品は単なる受動的なものになるのか?      

 反して、「一般的価値形態は」「商品世界の共通の仕事としてのみ成立するのである」。これの意味するものは何でしょうか。                   最後のセンテにの文で、「すなわち、諸商品の価値対象性も、それがこれらの諸物の単なる『社会的存在』であるのであるから、その全面的な社会関係によってのみ表現されるのであり、その価値形態は、社会的に妥当する形態でなければならないという事である」。資本主義は、「価値形態」とともに、必然的に歴史的に、自ら会った搾取社会を作り上げた?

 比較した結果からは、「今ではあらゆる商品が、ただ質的に等しいもの、価値一般としてだけでなく、同時に量的に比較しうる価値の大きさとしてもあらわれる」、「すべての商品が、その価値の大きさを同一材料で、亜麻布で映し出すのであるから、これからの価値の大きさは交互に反映し合うのである」。                要するに、質と量ともに統一された「価値」が出現しました。何故資本主義は、ひち面倒臭いのだろうか、単なる歴史学では教えてくれない、労働者階級はシンプルな社会を目指すのです。

 労働に関することの論述になります。                    「商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質を押し付ける」。押し付けられた結果はどうなりますか。 「亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通な価値形態であり、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える化身として、一般的な社会的な蛹化としての働きをなす。機織という亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的に社会的な形態、他のすべての労働との等一性の形態にあるのである。一般的価値形態を成立させる無数の方程式は、順次に亜麻布に実現されている労働を、他の商品に含まれているあらゆる労働に等しいと置く。そしてこのことによって、機織を人間労働そのものの一般的な現象形態にするのである」。

 この「第三節 価値または交換価値」は、労働者が読むことを念頭において、形式ぽく、したことを序文に語っていました。本質は、資本主義の人間労働がいかようにされているかを深堀りすることにあったのです。                   資本論は、あらゆるところに、労働、労働力がうごめいているのです。だからこそ労働者のための「資本論」なのです。ここでの「C 一般的価値形態」の段階は、「人間労働」を明らかにしていることによって、ここだけで貨幣はどのように生まれたかを、明らかにしたも同然と言えると思います。

 ここはとても重要と思われるカ所なので、引用でうめていきます。「このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用なる属性とから抽象された労働として、単に否定的に表示されるだけではない。それ自身の肯定的性質が明白に現れるのである。それはすべての現実的労働を、これに共通なる人間労働の性質に、人間労働の支出に、約元したものなのである」。        「このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部で労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成しているのを啓示するのである」。     「一 価値形態の変化した性格」とは、労働の性格だったのです、ここで意味がわかりましたね。重要なところは長くなります、辛抱強く、一歩一歩づつ。

二 相対的価値形態と等価形態の発展関係

 発展関係は次のような流れで進行する。                            「相対的価値形態の発展程度に、等価形態の発展程度が応じる」。           「等価形態の発展は相対的価値形態の発展の表現であり、結果であるに過ぎない」。

①「商品の単純なまたは個別的な相対的価値形態」⇒「他の一商品を個別的な等価」                                     ②「相対的価値の拡大された形態」⇒「各種の特別な形態を刻印する」       ③「ある特別な商品種」⇒「一般的等価形態を得る」「統一的一般的な価値形態の材料」

 受け身の等価形態と思われたが、「対立もまた発展する」。           〇「すでに第一形態 亜麻布20エレ=上衣1着 が対立を含んでいる」「しかし固定していない」「両極的対立を固着せしめるのに骨が折れる」             〇「第二形態 ⇒「まだ各商品ごとに、相対的価値を全体として拡大しうるのみ」「もはや価値方程式ーーー亜麻布20エレ=上衣1着または茶10ポンド などーーーの両項を移し換えると、その性格を変更し、これを総体的価値形態から一般的価値形態に転換させてしまう他はないことになる」。                       〇「最後の形態である第三形態」⇒「ついに商品世界に対して一般的社会的な相対的価値形態を与える」「亜麻布は、他のすべての商品と直接的な交換可能性の形態に、直接に社会的な形態にある」。                           〇「逆に、一般的等価という役割を演ずる商品は、商品世界の統一的な、一般的な相対的価値形態から排除される」。                         ここで、「亜麻布が、一般的等価形態にある何らかのある商品が、同時に一般的相対的価値形態にもなるとすれば」、それは「亜麻布20エレ=亜麻布20エレという式を得る」「これは内容のない繰返しであって、価値も価値の大きさも表現されていない。一般的等価の相対的価値を表現するためには、むしろ第三形態をひっくり返さなければならない」。ひっくり返す以外に、貨幣形態に進行する方法は存在しないのでしょう。

三 一般的価値形態から貨幣形態への移行                    

〇「除外」することによって、「貨幣形態」が現れてくる。次の引用で確認します。「一般的等価形態は価値一般の形態である。それはどの商品にも与えられることができる」。具体的に進めて、「一商品は、それがすべての商品によって等価として”除外”されるために、そしてその限りにおいてのみ、一般的な等価形態(第三形態)にあるのである」。                                   〇この除外が、終局的にある特殊な商品種に限定された瞬間から、初めて商品世界の統一的相対的価値形態が、客観的固定性と一般的に社会的な通用性とを得たのである」。とてつもなく広い商品世界の中から、「一商品」が「特殊な商品種」を絞り込んだのです。                                     〇次は金が貨幣になることを引用します。「特殊なる商品種」⇒ 「等価形態がその自然形態と社会的に合成するに至って、貨幣商品となり、貨幣として機能する」。   〇この「貨幣商品」は何ものになるのか。「商品世界内で一般的等価の役割を演ずることが、この商品の特殊的に社会的な機能となり、社会的独占となる」。       〇「独占」物は何者か。「この特別の地位を、第二形態で亜麻布の特別の等価たる役を演じ、また第三形態でその相対的価値を共通に亜麻布に表現する諸商品のうちで、一定の商品が、歴史的に占有したのである。すなわち、金である」。        「金」までたどり着くまで、長い長い道でした。

 

D 貨幣形態

 すべての商品量=金2オンス という等式に代わった世界を見る。       D=第四形態=第三形態=異なるところはない=一般的等価に留まる。       違うことは、進歩 ⇒「直接的な一般的な交換可能性の形態」「一般的な等価形態」 ⇒「社会的習慣によって」⇒「終局的に商品金の特殊な自然形態と合成してしまった」。                                    「しまった」とは何ですか。いやこれは歴史というものでしょう。すべからく人類がやり出したというしか、私には言えません。あしからずすまんな~。

 ヒントと言えるかわからないが、あなたにとって、「金が他の商品に対して貨幣としてのみ相対するのは、金がすでに以前に、金も、個々の交換行為において個別的の等価としてであれ、他の商品等価と並んで特別の等価としてであれ、とにかく等価として機能した。しだいに金は、あるいは比較的狭い、あるいは比較的広い範囲で一般的等価として機能した。金が、商品世界の価値表現で、この地位の独占を奪うことになってしまうとそれは貨幣商品となる。そして金がすでに貨幣商品となった瞬間に、やっと第四形態が第三形態と区別される。言い換えると一般的価値形態は貨幣形態に転化される」。

 価格形態 ⇒ 亜麻布20エレ=金2オンス または 亜麻布20エレ=2ポンド

 さ~ 「第三節 価値形態または交換価値の最後の文章を聞こう。       「貨幣形態という概念の困難は、一般的等価形態の、第三形態の理解に限られている。第三形態は、関係を逆にして第二形態に、拡大された価値形態に解消する。そしてその構成要素は第一形態である。すなわち、亜麻布20エレ=上衣一着 または A商品x量=B商品y量である。したがって、単純なる商品形態は貨幣形態の萌芽である」。

 だから言っただ~、「貨幣」とは「単純なる商品形態」に「萌芽」また「萌芽」と潜んでいるんだと、創造逞しく想像し、「貨幣」への物語を一瞬にして、理解することができるなら、これほど愉快な楽しいことがあるだろうか、すべての労働者が知るということができるなら、すべからく闘いも大いに楽しいものになるだろう。なぜなら、資本の源があおこにあるから、明らかになるから、だが闘いはまだまだ続くのです。

「金2オンス」の物語よりも、厳しい闘いが待っています。「第四節 商品の物神的性格とその秘密」です。あなたは秘密をこじ開けて、理解することができるだろうか。ちょっと辛抱して読みさえすれば、できるだろう。

 

資本論のための発信No8号 沖縄「資本論を学ぶ会」

  将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 B 総体的または拡大せる価値形態 をおこないます。

 (亜麻布20エレ=上衣1着 =茶10ポンド =コーヒー40ポンド =その他)

 拡大せる価値形態とは、亜麻布20エレが、無数の商品と関連を持ってつながる世界を描いている。分析は「一 拡大された相対的価値形態」「二 特別な等価形態」「三 総体的または拡大された価値形態の欠陥」と三つの面から明らかにします。

 

  一 拡大された相対的価値形態

 亜麻布20エレと結びついた関係の世界で、亜麻布の価値は、①「無数の他の成素に実現される」②「商品体は亜麻布価値の反射鏡」という「相対的価値形態」を描きます。 

何故でしょうか。「価値を形成する労働」とは何かを考えるのです。        それは「明瞭に一切の他の人間労働がそれに等しいと置かれる労働」と描かれ、「上衣に対象化させられようと、小麦や鉄または金などに対象化させられようと」関係ないとされます。                                  そして、「商品としてのこの世界の市民」「この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、使用価値がどんな形態であろうと、その特別の形態に対して、無関心であることにもなる訳である」。「質」は「人間労働」か。

 量的観点からも論述され、

「亜麻布の価値は、・・・種々雑多な所有者に属する無数に違った商品で示されようと ”同じ大きさ” である。二人の個人的な商品所有者の ”偶然的な” 関係は無くなってしまう」と、                               一つの商品 ”亜麻布” は、同じ大きさに統一されると考えていいのでしょうか。

 最後のセンテで、「交換が商品の価値の大きさを規制するのではなく、逆に商品の価値の大きさが、その交換比率を規制するのであると言うことは、明瞭になっている」と論述されたことを考えるに、あなたとは1着、あなたとは10ポンド、あなたとは2オンスと、亜麻布の価値に統一された世界の中で規制されると考えていいのでしょうか。

 

  二 特別な等価形態・・・・・2センテで短し。

 自然形態の面 ⇒ 「上衣、茶、小麦、鉄などの商品は」、「等価」「価値体」「これらの商品の各々の特定なる自然形態はいまでは多くの他の商品と並んで、一つの特別な等価形態」として表される。

 労働の面 ⇒ 「商品体に含まれている特定の具体的な有用な多種多様の”労働種”は無差別の”人間労働”を、特別な実現形態または現象形態で示すことになっている」。

この「特別等価形態」は文章が短いからといって、どうでもいいと考えないでください。あとで、貴重な役割を、意味のある行いを、実践していくことになるであろう。

 

  三 総体的または拡大された価値形態の欠陥

 欠陥とは何でしょうか。次の段階に進むための克服する課題は何でしょうか。三つの欠陥を示しています。

一つ、「表示序列がいつになっても終わらない」から、「商品の相対的な価値表現は未完成である」。                                 二つ、「それは崩壊しがちな雑多な種類の価値表現の色とりどりの寄木細工をなしてい る」。何を見て「崩壊しがち」なのか、次に展開する「C」の形態を見てでしょうか。

三つ、「あらゆる商品の相対的価値は、この拡大された形態で表現されざるを得ないのであるが、そうなると、あらゆる商品の相対的価値形態は、すべての他の商品の相対的価値形態と違った無限の価値表現の序列である」。

 

等価形態について。                              ①「拡大された相対的価値形態の欠陥は、これに相応する等価形態に反映する」。  ②「すべての個々の商品種の自然形態は、ここでは無数の他の特別な等価形態と並んで一つの特別な等価形態であるのだから、一般にただ制限された等価形態があるだけであって、その中の各々は他を排除する」。排除とは割込み競争をしている感じですか?   

 

労働について。                                ①「これと同じように、すべての特別な、商品等価に含まれている特定の具体的な有用労働種は、ただ人間労働の特別な、十全でない現象形態である」           ②「人間労働は、その完全な、または総体的な現象形態を、かの特別な現象形態の総体的拡がりの中に持っているが、なんら統一的の現象形態を持たない」。           

 今までの局面では、常に「労働」を意識して内容を取込んでいくのでしょうか?疑問を自らに提起し続けよう!

 「欠陥」から克服する道筋を提起 ⇒ 「彼らの種々の商品の価値を同一の第3の商品、亜麻布で表現しなければならぬ。ーーーかくて、もし我々が、亜麻布20エレ=上衣1着、または =茶10ポンド または =その他 と言うような序列を逆にするならば我々が実際にはすでに序列の中に含まれていた逆関係を表現するならば、次のようになる」。

 次号は、「C 一般的価値形態」を行います。

 

 

 

資本論のための発信No7号 沖縄「資本論を学ぶ会」

  将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 今回の7号は、「四 単純な価値形態の総体」を行います。併せて、マルクスのクーゲルマンへの手紙を紹介します。それは「価値」と言うものを考えるに参考になるだろうと思います。

 「単純な価値形態の総体」の1パラにおいて、今までの一から三まで説明してきて、商品と言う定義的なものが、変更、差し障りのないこと、説明されています。

 「商品は使用価値であり、また交換価値である」⇒「正確に言えば誤りであった」      「商品は使用価値または使用対象であり、また『価値』である」⇒「正確に言えば」 このことをマルクスは、「商品はこの形態を、孤立して考察する場合持っているのでなく、常に第二の異種の商品に対する価値関係、また交換関係においてのみ、持っているのである。だが、このことを知ってさえいれば、先の言い方は無害であって、簡略するに役立つのである」と言っています。厳密に思考するマルクスです。

 

 次は、俗流経済学派に対する批判を行っています。もちろん価値について。  「我々の分析の証明するところによれば、商品の価値形態、またはその価値表現は、商品価値の本性から出てくるもので、逆に価値や価値の大きさが、交換価値としてのその表現様式から出てくるものではない」と、「逆に」以下の文に留意しよう。     重商学派、フェリエやガニー ⇒「近代の蒸し返し屋たちの妄想」         上記対象者のバスティア   ⇒「近代自由貿易の外交員たちのそれでもある」   重商学派 ⇒「重点を、貨幣として完成された姿になる商品の等価形態に置いている」近代自由貿易外交員 ⇒ 「重点を相対的価値形態の量的側面に置いている」    彼らをまとめて批判し、「彼らにとっては商品の価値も価値の大きさも、交換関係を通した表現以外には存しないし、ただその日のその日の時価表の中だけに存する」。

 

 次に、「商品Aの価値表現を詳しく考察」する結果は、            「内部において」 「商品Aの自然形態は、ただ使用価値の姿としてのみ」        

         「商品Bの自然形態は、ただ価値形態または価値の姿としてのみ」

「外的対立によって」「二つの商品の関係によって示されている」

「この関係において」「一方の商品は直接にただ使用価値」「直接に交換価値として」

「それ故に、ある商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態である」

 

 次は、労働生産物・商品を使用価値と価値から、どの段階で発生するのかを問う。「労働生産物は、どんな社会状態においても使用対象である」、それは誰もが知る。 しかし商品は、「歴史的に規定された発展段階のみが」「価値として表す」「労働生産物を商品に転化する」。「このことから、商品の単純なる価値形態は、同時に労働生産物の単純なる商品形態であり、商品の発展も価値形態の発展と一致するという結果になる」。

 この「A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」は、貨幣・金に向けて進めて言う上に、第3節での中でも極めて重要なところだと思います。何故なら、貨幣への必然性が見えてくるからです。これを眼力が必要だと思います。だが私ができるかと言えば、自信はありませんが。

 以下の説明は、「B」への移行に向けての準備になっています。次号は「B 総体的または拡大せる価値形態」を行います。

 そこでスペースが開いていますので、価値に関して、マルクスからクーゲルマンへの1867年7月11日付けの手紙を紹介します。参考になると思います。

 「どの国民も、1年とはいわず2、3週間でも労働をやめれば死んでしまうであろうということは、どんな子供でも知っています。また、種々の欲望量に対応する生産物量が社会的総労働の種々の量的に規定された量を必要とするということも知っています。この、一定の割合での社会的労働の分割の必要は、決して社会的生産の特定の形態によってなくされるものではなく、ただその現象様式を変えるだけだということは、自明です。自然法則は一般に廃棄されるものではない。歴史的に種々に異なる諸状態のもとで変化しうるものは、かの諸法則が貫かれる形態だけです。そして、社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会状態において、かような一定の割合での労働の分割が貫徹される形態、それがまさにかような生産物の交換価値なのです。

 いかにして価値法則が貫かれるかを展開すること、これこそが科学です。だから、外観上法則に矛盾するあらゆる現象を初めてから『説明』しようとすれば、科学以前に科学を与えねばならないことになるでしょう。リカードが価値に関する彼の最初の章で、これから展開されるべきあらゆる可能な範疇を与えられたものとして前提して、それらが価値法則と合致していることを論証しようとすること、彼の失敗はまさにここにあるのです。」

 「この俗流経済学者は、現実の日常の交換比率と価値量とは直接には同じではありえないということには、いささかも考えつかなかった。ブルジョア社会の妙味は、まさに、生産の意識的な社会的規制が本来行われないということにある。理性的なもの及び自然必然的なものは、ただ盲目的に作用する平均としてのみ貫かれる。そこで俗流経済学者は、内的関連の暴露に対して現象では事態がそれとは違って見えることを、とくとくとして主張することによって、一大発見をなしてたと信じている。彼が自慢していることは、実際には、彼が外観にとらわれていてそれを究極のものだと思い込んでいるということです。それならば、そもそも科学なるものは何のためのものでしょうか?

 しかし、事柄はここではもう一つ別の背景をもっています。関連の認識とともに、実際上の崩壊よりも前に、現存状態の永遠の必然性に対するいっさいの理論的信念が崩壊してしまう。だからここでは、無思想な混乱を永久化することが、支配階級の絶対的利益なのです。そして、それ以外に、追従者的饒舌家たちに報酬が支払われる何の理由がありましょうか、この経済学ではおよそ考えることはいらないのだという以外には何一つ学問上の切り札を出すことができない饒舌家たちに?

 しかし、もうたくさんです。とにかく、いかにこれらのブルジョアジーの坊主どもが堕落していようとも、労働者たちは、そして工場主や商人さえも、私の本を理解し、そこに正しい道を見つけたのです、これらの『文書学者』(!)が、私が彼らの悟性に全く不当なことを求めるといって嘆いているあいだに。」

 今でも、マルクスを利用して、捻じ曲げて、それらしき書籍を出版して、金もうけに精をだす、たくさんの学者たち。マルクスそのものの文書を読んで深く理解を掴み取ることが労働者に必要です。

 

 

資本論のための発信第6号 沖縄「資本論を学ぶ会」

  将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 資本論に入る前に、newsを。リクルート研により、40年に労働者の供給不足が1100万人超になるとの予測が発表されました。深刻な18都道府県のうちに京都、愛媛、北海道、静岡、愛知、滋賀、も挙げられていて、どちらも製造業の盛んな県です。それに反し、鳥取、香川は、不足率0.9、1.6%で生産活動が縮小し労働力自体が減り、産業が弱体な我が沖縄は17.5%になるらしい。全体は20年7500万人から40年6000万程と予測されいます。高度成長から低成長を経て、がた落ちの上、労働力減少の追加、果たして1000万人をロボットに置換える産業革命に至らす条件は残っているだろうか?

 今回は、三 等価形態です。

 等価形態の説明は、第一特性、第二特性、第三特性に分かれます。

第一の特性に関する説明

 「亜麻布は自分自身であることを、実際には上衣が直接に自分と交換しうるものであるということを通じて表現するものである。一商品の等価形態は、この商品の他の商品に対する直接的な交換可能性の形態である」1para

 「もし上衣というような一商品種が、亜麻布のような他の商品に対して、等価として用いられるとしても、上衣が亜麻布と直接に交換しうる形態にあるという独特の属性を得るとしても、これによって、上衣と亜麻布と直接に交換しうる形態にあるという形態にあるという独特の属性を得るとしても、これによって、上衣と亜麻布とが交換されうる 割合 も与えられているという訳ではない。この割合は、亜麻布の価値の大きさが与えられているから、上衣の価値の大きさにかかっている。・・・。その価値の大きさは価値方程式において、むしろただ一物の一定量のとして現れるだけである」。2para

 「2着の上衣は、40エレの亜麻布の価値の大きさを表現することができるが、自分自身の価値の大きさを、表現することはできないのである。・・・。一商品の等価形態は、むしろ何らの量的価値規定をも含んでいないのである」3para

◎「等価形態の考察に際して目立つ第一の特性は、このことである。使用価値がその反対物の現象形態、価値の現象形態となるということである」。4para

次は第二の特性へ突入します。

 「商品が自然形態が価値形態となる」                    「しかし、注意すべきは取り違え」に関して、「商品B(上衣)にとっては、ただ他の適宜な商品A(亜麻布)が自分に対してとる価値関係の内部においてのみ、おこることなのである」 ⇒「このような商品は、他の商品を等価として、これに関係しなければならぬ」5para

 「度量衡の例」から。「鉄なる物体が、重量尺度として砂糖塊に対して、ただ重さだけを代表しているように、我々の価値表現においては、上衣体は亜麻布に対して、ただ価値を代表するだけである」6para

 「鉄は砂糖塊の重量表現で、両物体に共通なる自然属性、それらの重さを代表したのであるが、他方の上衣は亜麻布の価値表現において両物の超自然的属性を、それらのものの価値を、およそ純粋に社会的なものを、代表しているのである」。ここは、貨幣・金への道を予感させる文章です。7para

 「亜麻布の相対的価値形態」は、上衣等しいものとして表現しているが、表現そのものが社会関係を隠して”おもて” に出ない。                  「等価形態であるゆえんは、まさに一商品体、上衣があるがままの物として価値を表現し、自然のままのものして、価値形態を持っているということの中にあるのである」。「ありがまま」「自然のまま」とは、天然に持っている」「重いとか温かいという属性」を言う。「このことから等価形態の謎が生まれるのであって、それは、この形態が完成した形で貨幣となって、経済学者に相対するようになると、初めてブルジョア的に粗雑な彼の目を驚かすようになる。・・・。彼は、亜麻布20エレ=上衣1着というような最も簡単な価値表現が、すでに等価形態の謎を解くように与えられていることを想像してみないのである」8para

 「具体的労働は、抽象的に人間的な労働の表現となる」ということの意味を考えよう。「上衣が抽象的に人間的な労働の単なる実現となっているとすれば」と仮定し、裁縫(B)は抽象人間的労働の単なる表れとしか見られなていないとします。     今度は亜麻布の現れ方・表現は、「裁縫の有用性」に現われる。「裁縫が衣服を作り」「一つの物体を作ることにある」とする。それは具体労働生産物のイメージではない?

物体は、抽象的に現れるのでしょうか。                    「この物体に対して、人は、それが価値であるという風に亜麻布価値に対象化されている労働から少しも区別されない労働の凝結物であるという風に見なしてしまうのである」

「このような一つの価値鏡を作るために、裁縫自身は人間労働であるというその抽象的な属性以外には、何物を反映してはならない」。9para

 価値生産と価値表現、区別を論じる。

価値生産について、裁縫の形態、機織の形態の「両者は人間労働の一般的な属性を持っている」、この場合はこの観点から考察しよう。    

価値表現では、「事柄は歪められる」とは何か。                「機織が機織としての具体的な形態においてではなく、人間労働としてその一般的な属性において、亜麻布価値を形成すると言うことを表現するためには、機織に対して裁縫が、亜麻布等価物を作り出す具体的労働が、抽象的に人間的な労働の掴みべき実現形態として対置されるのである」。                         具体的労働と抽象的人間労働を対比し深めたことがいいのです。それにしても人間たるものが、抽象的人間労働の祭り上げられて、搾取へ引っ張り込められ、それによって労働者は搾取の目隠しされ、ここから始まっているのだろうか?10para

◎「それ故に、具体的労働がその反対物、抽象的に人間的な労働の現象形態となるということは、等価形態の第二の特性である」。第二特性の終わりです。

◎具体的労働、私的労働、社会的労働、から第三特性は至るのは、クライマックス。「この具体的労働、裁縫は無差別ば人間労働の単なる表現として働くことによって、他の労働、亜麻布に潜んでいる労働と等一性の形態を持ち、他の一切の商品生産労働と同じように私的労働であるが、直接に社会的な形態における労働である。まさにこのために、この労働は、直接に他の商品と交換しうる一つの生産物に表されている。このように、私的労働がその反対物の形態、直接に社会的な形態における労働となるということは、等価形態の第三の特性である」。                     「等価形態」は、第三特性を述べるに尽きるだろう。よくも面倒くさい抽象を解き明かしたものだ。なければ後2000年も無知蒙昧の世界が続くことだろう。マルクスよ、満身創痍でよくやったり。アリストテレスを持ち出さなくても、労働者なら理解してくれるだろう、労働者魂さえあれば、読みさえすれば、労働者階級は前進する。

 次回は、「四 単純な価値形態の総体」をおこなう。Aの総括文章になりますか?