資本論のための発信No10号 沖縄「資本論を学ぶ会」

  将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!       今号は、第1章の商品の「第4節商品の物神的性格とその秘密」です。この第4節は、「第1章商品」の最後にあります。ということは「商品」の意味するものの総括と受けてもいいでしょう。その「秘密」を解くことによって、資本主義社会での「商品」に対する理解を深めていきましょう。マルクスの論理展開を追って行きます。                  

 商品の分析は、使用価値という事から始めました。ここでも使用価値からみたときに「少しも神秘的なところもない」、誰でも机が「木であり、普通の感覚的な物」であることを知ります。それが机として商品となれば、「商品は気難しい物であって、形而上学的小理屈と神学的偏屈に満ちたもの」に代わるとし、「感覚的にして超感覚的な物に転化する」とも言っています。それを解釈すると、「神秘的性質」は「使用価値」「価値規定の内容」=労働時間、からではないと。何故か、一に「人間有機体の機能」の表われにすぎない。二に価値の大きさの規定=「価値規定の内容」は人間の関心事項である。三に共同になると「社会的の形態」=社会的なもの、になるのは当たり前だから不思議なことはない。

 これらは否定されました。では「性質はどこから発生するのか?」、それは「明らかにこの形態自身からである」と、わかりやすく言うと、「彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態をとる」ということです。さらに追及します。

 「性質」のあとに、「商品形態の神秘に充ちたものは」の説明がされます。説明として、「取り違えによって、労働生産物は商品となり、感覚にして超感覚的な、または社会的な物となるのである」というように言います。人間が「物」=生産物をみるとき、光からの視覚的現象は「物理的関係」でしかないので、「価値関係」とはまったく関係ないと。何と「取り違え」なのかというと、「人間自身の特定の社会的関係であるにすぎない」と。単なる「物」=「生産物」にすぎないのに、あたかもそれから「価値」が生まれる如く生ずると考えるのです。マルクはそれを「物神礼拝」と名づけました。

 資本主義とはどのような社会なのかを関連して、マルクスは「物神的性格」をいっています。「商品世界のこの物神的性格は、先に述べた分析がすでに示したように、商品を生産する労働の独特な社会的性格から生ずるのである」。それからも「資本主義」がおぼろげに解ってきます。

 さらに、「商品を生産する労働」に突っ込んでいきますと、「使用価値が一般に商品となるのは、もっぱらそれが相互に相独立して営まれる私的労働の生産物であるからである」と。

 次に「社会的総労働に」に行きます。「私的労働の複合が社会的総労働をなす」と。「私的労働は、事実上交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者達が置かれる諸関係によって、初めて社会的総労働の構成分子たることを実証する」。「彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また物の社会的な諸関係として現れるのである」。生産施設、商品を管理する資本家のもとに労働する人々が管理される、物に動かされる人間の、資本主義社会の姿がチャンプリン映画のごとく描かれるのです。

 私的労働に関する物語は続きます。前パラの「社会的総労働」がみえた時、「この瞬間から生産者達の私的労働は、事実上二重の的性格」が見えるとするのです。二重というのは、「特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、そして総労働の、社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ」ことと、「生産者達自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の有用な私的労働種と交換される限り、これと等一なるものとなる限りに充足する」という観点からみた二重となります。

 そして「価値」に関係させるのは何か、「彼らはその各種の生産物を、相互に交換において価値として等しいと置くことによって、その違った労働を、相互に人間労働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし彼らはこれをなすのである」。

 次に「生産物交換者」が興味を引く「割合」はどの時期に明らかになるのかを論じます。「相互に営まれるが、社会的分業の自然発生的構成分子として、あらゆる面において相互に依存している私的労働が継続的にその社会的に一定の割合をなしている量に整約されるのは、私的労働の生産物の偶然的で、常に動揺せる交換諸関係において、その生産に社会的に必要なる労働時間が、規制的な自然法則として強力的に貫かれること、・・・、このことを経験そのものの中から科学的洞察が成長してきて看破するに至るには、その前に完全に発達した商品生産が必要とされる」時に明らかになると言うのです。

 マルクスがここまで述べてきたことが、「商品の物神的性格とその秘密」の本質を突いたものと考え、「人間生活の諸形態に関する思索、また科学的分析」「ブルジョア的経済学の諸範疇」「ロビンソン物語」「ヨーロッパの中世」「農家の田園的家父長的な産業」「自由な人間の一つの協力体」「宗教形態、古代アジア的」を飛ばします。

 最後に忘れていけないこと、「経済学は」「何故にこの内容がかの形態をとり、なぜに労働が価値において、また労働時間による労働の秤量が労働生産物の価値の大きさの中に示されるのか?という疑問すら提起しなかった」と言うことを持って「第4節」は終わります。次号は「第2章 交換過程」を発信します。