資本論のための発信No11号 沖縄「資本論を学ぶ会」

  将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 今号は「第2章交換過程」です。人間の労働によって作られた生産物は、単なる物ですから、私は商品になりましたと、私を買って、売ってという訳がありません。商品には「番人」=商品所有者が必要です。商品所有者が如何なる行動により商品を売買し貨幣を得る生き様を、条件を示すのです。第2章で最も言いたいことを提示しよう。     「貨幣が商品であるのを理解することよりも、商品は、いかにして、なぜに、何によって、貨幣であるかを理解することにある」。第1章第3節のA、B、C、Dを踏まえて総括的に説明している第2章を学んで行きましょう。番人とは商品所有者のことであり、「人々はここではただ相互に商品の代表者としてまた商品所有者として存在している」こと、そして背後にある経済を「叙述の進行と共に、一般に人々の経済的仮装は経済的諸関係の人格化にすぎず、この経済的諸関係の担い手として、彼らが相対しているという事をみるであろう」。                                             

 次に問題を提示、「商品は、それが使用価値として実現される前に、価値として実現されなければならない」と、第1章のどこかで見たような表現でしょうか、さてこの矛盾をどう解く。                                まずは、「商品所有者を特に商品から区別するもの」は何ですか。この「商品自身」だけで物事は進みません。「すべての他の商品体」が「商品自身」の価値を表す姿に見えるだけの事情を抱えていることです。事情は単なる事情です。しっかりした価値は見えていない。商品所有者は、使用価値をもって、目をキョロキョロして、目的に適った相手を探し、交換に成功することを目指すのです。マルクスの文章は「すべての商品は、その所有者に対しては非使用価値であり、その非所有者に対しては使用価値である。商品はこうして全般的に持ち手を換えなければならない。この持ち手変更がその交換をなすのである。そしてこの交換が商品を価値として相互に関係させる。さらにこれを価値として実現する」の後に前パラで行った問題提示の文章が続くのです。やはりマルクスの文章が洗練されています。

 しかし矛盾は解き終わらず、「商品は、それが価値として実現される前に、使用価値であることを実証しなければならない」、価値が実現されたと言ったばかりなのに、今度は使用価値を、何と、ややこしい、たら有りはしない。「商品に支出された人間労働」は他人が有用な物でなければならないと、有用な物であるかどうかは、「諸商品が交換されて初めて証明」されると来ました。一体全体、どうなるでしょうか、結論は。

 解決のヒントは、「交換」に「個人的な過程」と「社会的過程」を持込むことです。商品所有者が商品の使用価値をもって相手方に「譲渡」するのみの「個人的過程」、商品所有者が商品の「価値」、「同一価値をもっている任意のあらゆる他の商品に実現しようと」する「社会的過程」という二つの過程が提示されました。しかしながら「この同じ過程が同時にすべての商品所有者に対して、もっぱら個人的であって、同時にまたもっぱら一般的に社会的であるというようなことは」ないないと否定されました。歴史は淡々と人間の生産力を高めるために商品を生み資本を生み恐慌を生み限界を生む、将来の社会を生み出す労働者の使命を、資本主義の細部に潜んでいるのです。

 ここのところをマルクスは「詳細に」説明していきます。①「彼の商品は、また他のすべての商品の一般的な等価となる」②「諸商品は、それが価値として等置され、また価値の大きさとして比較されるべき何らの一般的相対的価値形態を持っていない。したがって、諸商品は一般に商品として対立するのではなくして、ただ生産物または使用価値として対立するのである」③「彼らは、彼らが考える前にすでに行っていた。商品性質の諸法則は、商品所有者の自然本能の中に活動していた。・・・、それを成すのに彼らは商品を、対立的に、一般的等価として何らかの他の商品に対して相関係せしめていたのである」④「ただ社会的行為のみが、一定の商品を一般的等価と成すことができる」⑤「すべての他の商品の社会的行動は、諸商品が全般的にその価値を表示する一定の商品を除外する。・・等価となる」。最後に、「一般的な等価であることは、社会的過程によって、この除外された商品の特殊的に社会的な機能となる。こうしてこの商品は貨幣となる」。交換過程を説明するに、第1章第3節を再び説明するようになっているのは何故か。次の説明段階に行くための旅路へ、論理的筋道としてであろうと考えます。それは交易関係、地理的関係が生じるところに交換のある物語は続くのです。

 「商品交換は、共同体の終わるところに、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる」と、外部へ影響しました。影響は内部に跳ね帰ってきます。「物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、直ちに、また反作用を及ぼして、共同体の内部においても商品となる」、アフリカの果て、南米の果て、世界の果てまで、ひっこりひょうたん島はゆく、です。

 次に「量的交換比率」はどうなるのですか。①「初めは偶然」それは「相互的に譲渡し合うという意思行為によって交換される」②「他人の使用対象に対する欲望は、次第に固定化する」③「交換の絶えざる反復は、これを一つの規則的な社会過程とする」④「この瞬間から、直接的欲望のための物の有用性と、その交換のための有用性との間の分裂が固定化する」⑤「使用価値は交換価値から分離する。交換される量的関係は、その生産自身に依存するようになる」⑥「習慣はそれらの生産物を価値の大きさとして固定化する」。ここは第1章第3節とは違う観点から、貨幣・金への道筋です。

 次も、「交易」と「第三商品」え絡めて、第3節価値形態と違った面からの説明となります。①「直接的な生産物交換」「交換物品」は「独立した価値形態を得ていない」②「この形態の必然性は、交換過程に入る商品数が増大し、多様化されると共に発展する」③「交易は各種の商品所有者の各種の商品が、交易の内部で同一の第三の商品種と交換され、また価値として比較されるということを必ず伴う」④「商品交換の発達とともに、一般的等価形態は、もっぱら特別な商品種に付着する、結晶して貨幣形態となる」⑤「貨幣形態は、外域からの最も重要な交換品目に付着する」⑥「貨幣形態は、一般的等価の社会的機能に適する商品、貴金属に移行する」⑦「随意に分割しえ、またその分割部分を再び合体させうるものでなければならぬ。金と銀とはこのような属性を持っている」となる流れで「金」にたどり着いたのである。結論的な文章を次に掲げる。

 「彼らの規制と彼らの意識した個人的行為から独立した彼ら自身の生産力諸関係の物財的な姿は、まず彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるということの中に現われるのである。貨幣物神の謎は、商品物神の目に見えるようになった、眩惑的な謎であるに過ぎないのである」。end