資本論のための発信No2号 沖縄「資本論を学ぶ会」

  将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 

 資本論第1巻 資本論の生産過程 第6篇労働賃金 第17章「労働力の価値または価格の労働賃金への転化」を発信します。

 労働賃金とは何かと、紐解くにあたって、「商品の価値とは何か? 生産において支出される社会的労働の対象的形態である。何によって、商品の価値を測るか?その中に含めれる労働の大きさによってである。何によって、商品の価値を測るか?その中に含まれる労働の大きさによってである。12時間の労働日の価値は、何によってである、これは馬鹿げた同義反復である」。

 理解するためには、商品の価値とはどのようなものであるか、資本主義経済を理解するに、必須であることを強調しています。突然「労働賃金」から始めても簡単ではなく難しいでしょう。あえて「労働賃金」から始めたのは、資本論は論理組み立ての世界でもあることを理解するためです。価値はあらゆるところに潜み、それの理解なしにやれば怪我をする、理解しがたいということです。

 それで、本章では中心的なことに、絞った説明でどれだけのことが理解できるか検討することにしました。

 11パラにおいて、「労働の価値というのは、労働力の価値を意味する不合理な表現に過ぎないのであるから、おのずから労働の価値は、常にその価値生産物よりも小でなければならない、ということになる」。

 そして、「労働賃金という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに、支払労働と不払労働とに別れたることのすべての痕跡を消し去る。全労働が支払労働として現れる」

 賦役労働⇒「賦役労働者の自分自身のための労働と領主のための強制労働とは、空間的及び時間的に極めて明瞭に感覚的に区別される」。

 奴隷労働⇒「奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するにすぎない労働日部分、彼が事実上自分自身のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現れる。彼の全労働が不払労働として現れる」。

 賃金労働⇒「剰余労働または不払労働さえも、支払労働として現れる。かの場合には所有関係が奴隷の自分自身のための労働を隠蔽し、この場合には、貨幣関係が賃金労働者の無償労働を隠蔽するのである」。

 「かくして、労働力の価値と価格を労働賃金の形態に、あるいは労働そのもの価値と価格に転化させることの、決定的重要性が理解される。現実の関係を隠蔽して、その正反対を示すこの現象形態こそは、労働者と資本家のあらゆる法律的観念、資本主義的生産様式のすべての瞞着、そのあらゆる自由の幻想、俗流経済学のすべての弁護論的空論が、その上に立つ基礎なのである」。

 16パラにて、「さらに、交換価値と使用価値とは、それ自体としては通約されない大きさであるから、『労働の価値』『労働の価格』という表現が『綿花の価値』『綿花の価格』という表現以上に不合理であるとは見えない。その上に労働者は彼がその労働を供給してしまってから支払いを受ける、ということが加わる。そして貨幣は支払手段としてのその機能においては、供給された物品の価値または価格を、供給された労働の価値また価格を後から実現する。最後に、労働者が資本家に供給する『使用価値』は、実際には、実際には彼の労働力ではなく、労働力の機能、一定の有用労働であり、裁縫労働、製靴労働、紡績労働などである。同じ労働が他の一面から見れば、一般的価値形成要素であることは、労働をすべての他の商品から区別する属性なのであるが、普通の意識の領域に入らないのである」。

 18パラは、資本家の立場です。「彼が実際上、関心を持つのは労働力の価格と、労働力の機能が作り出す価値との差額のみである。しかし、彼はすべての商品を能う限り、安価に買おうとするのであり、常に彼の利潤を、価値以下での購買と価値以上での販売という単純な欺瞞から説明する。彼は労働というものが現実に存在して、彼がこの価値を現実に支払うものとすれば、資本なるものは存在せず、彼の貨幣は資本に転化はしないであろう、という見解には到達しないのである」。

 本章の最後のパラにて、「労働賃金という現象形態については」「科学によって発見されねばならない」とし、「古典派経済学は、真実の事態に迫っているが、これを意識的に明確に表現していない。それがブルジョア的外被を脱しない限り、そうすることはできないのである」と、現代の俗流経済学においても、目の前に見える現象を追いかけっこし、本質を追求することに無頓着である。

 次回から、第1巻 第1篇 商品と貨幣、第2篇 貨幣の資本への転化 を進めていきます。資本論で最も基礎的な部分なのですが、商品と貨幣は抽象的で理解するに難儀するところです。細切れに発信することになります。