資本論のための発信No4号 沖縄「資本論を学ぶ会」

 将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 今回は、「第2節 商品に表された労働の二重性」を発信します。

何故、第2節の項目を設けられたのか。マルクスは、「商品に含まれている労働の二重の二面的な性質は、私が初めて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって、これをめぐって経済学の理解があるのだから、この点はここでもっと詳細に吟味しなければならない」と、設けた理由を挙げています。「労働の二重性」が跳躍点であり、それなしには経済学はあり得ないと言っています。

 分析は、一着の上衣と10エレの亜麻布をとり、亜麻布=W、上衣=2Wとする。上衣は使用価値であり、「生産的活動」は、「目的、作業法、対象、手段及び成果」による使用価値を産み出した労働を「有用労働」と名づけています。           有用労働からは、「上着と亜麻布」、「裁縫と機織」が「質的に違った使用価値」「質的に違った有用労働の生産物」であることから、上衣と亜麻布は「商品として相対する」ことができるようになります。                               使用価値に関係することは、有用労働だけではなく、「社会的分業」もあり、それは「商品生産の存立条件」としています。「社会的分業」によって、「独立的でお互いに分かれている私的労働の生産物」だけ商品になり、二つの商品は相対することができるところにあります。私的労働による社会的分業により、商品が出会うチャンスがあるのです。もし分業がなければ、商品は現れるでしょうか。現れないと言っています。

 以上記述したところから、「もし(商品の)使用価値に質的に違った有用労働が含まれていないとすれば、使用価値は商品として相対」できない。私的に独立に業をなす段階の各々に違った「有用労働」の「質的な相違」を持つなら、「社会的分業」が発展していくことだと思います。強調されるべきは「有用労働」と「社会的分業」でしょう。    使用価値に関する「有用労働」についてさらに、「使用価値の形成者として、有用なる労働としては、労働はすべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を人間の生活を媒介するための永久的自然条件」の役割を果たしています。

 まとめとして、「上衣、亜麻布などの使用価値、簡単に商品体は、自然素材と労働という二つの要素の結合である」と、人類が材料を生み出し発展してきたことを誰もが知っている。その中から「使用価値」をピックアップし、特殊資本主義の「価値」を結びつける発想、たわいも無い事から偉大なる発明が行われるような「経済学」を築き上げたことに驚きであります。

 

 今度は、難しいのか易しいのか、の「商品価値」に画面が変わります。

 

 前に示した亜麻布Wと上衣2Wは、そんなことはたわいもなく、量的に違うだけで関心を引くものでありません。商品を厳密に調べていけば、ごまんとありますね。  「価値として、上衣と亜麻布とは同一実体の物であり、同一性質の労働の客観的表現である。しかしながら、裁縫と機織とは質的に違った労働である」ということから何を導くのだろうか、と考えていきます。                      「労働の有用な性格を見ないとすれば、労働に残るものは」何ですか。「裁縫と機織とは」「ともに人間労働」からの形態とは何でしょうか。答えるべきは「商品の価値は、人間労働一般の支出」だということであります。

 それから、「労働一般の支出」のことから出てくることは、「単純な労働力」と「複雑労働」であり、「単純な労働力の支出」は、「すべての普通の人間が特別の発達もなく、平均してその肉体的有機体の中に持っている単純な労働力の支出である」と定義されました。「複雑労働は、「複合された単純労働」「複雑労働のより小なる量は、単純労働のより大なる量に等しくなる」と定義されます。以下では簡単のため「単純労働力」を分析の手段とすることになります。

 

 前提条件を終えたところで、「上衣や亜麻布という価値は」「有用なる形態である裁縫や機織の相違から抽象されている」ことから始め、「上衣や亜麻布と言う価値が」「ただ人間労働力の支出となっている」と明らかにし、使用価値の「労働が上衣や亜麻布価値の実体であるのは、ただそれらの特殊な質から抽象され、両者が同じ質、人間労働の性質をもっている限りにおいてである」と振り返りました。

 価値は、「人間労働の性質」、いわゆる「質」だけにとどまるものではありません。「上衣と亜麻布とは、ただ価値そのものだけであるだけでなく、一定の大きさの価値である」こと、W=2Wと言う関係、「上衣の生産には、労働力が亜麻布の生産に比べて2倍の時間、支出されなければならぬということ」を示すものです。「一定の大きさの価値」つまり「量」というのが、これらの「資本」の分析の段階にどのような関係があるでしょうか。今の段階で、私には皆目予想することもできません。資本分析の中で見つかるでしょうか。

 

 そこで、使用価値と価値の比較定義をしましょう。               *使用価値について、「商品に含まれている労働がただ質的にのみ取上げられている」「労働は如何になされるかということ、何を作るかということが問題である」。   *価値の大きさについて、「労働はすでに労働であること以外に何ら質を持たない人間労働に整約されたのち、ただ量的にのみ取上げられている」「労働のどれだけということ、その時間継続ということが問題」と分担作業があるかごとく商品を構成します。 *両方のことから、「ある商品の価値の大きさは、ただそれに含まれている労働の定量をのみ表しているのであるから、商品はある割合を持ってすれば、常に同一の大きさの価値でなければならぬ」とまとめられました。

 

 まとめられたことを、「例えば」で説明しているのを、引用します。      「一着の上衣の生産に必要な一切の有用労働の生産力が不変であるとすれば、上衣の価値の大きさは、それ自身の量とともに増大する」とうのは簡単ですね。次の過程を提起する。「しかしながら、一着の上衣の生産に必要な労働が2倍に増大するか、または半分だけ減少すると言う場合を仮定しよう」。                   前の場合と後の場合は「有用労働は依然として同一の品質に留まって」いるというのですが「その生産に支出されている労働量は変化している」と、どういう理由になるのでしょう。

 

 より高まった生産力が発揮されるなら、労働力の支出は少なくなるが、生産を増えるというようなことはよく聞くような話ではあります。説明はどうなるでしょうか。 「より大きな量の使用価値は、それ自身としてはより大きな素材的富をなしている」「だが素材的富の量が増大するのに対しては、その価値の大きさの同時的低下ということが相応じる。この相反する運動は、労働の両面的な性格から生じている」と説明されるのは、素材の量と価値が比較され、一方は増大、他方は低下し、相反運動は、節の主題である「労働の二重性」から生まれると言っています。ここは生産力に関わります。

 

 「有用労働は、その生産力の増大あるいは低下と正比例して、より豊富な生産物源泉となれば、より貧弱なそれともなる。これに反して、生産力の変化は、価値に表されている労働をそれ自身には、少しもふれるものではない」。             さらに、「生産力は、労働の具体的な有用な形態がもっているものであるから、労働がこの具体的な有用な形態から抽象されるや否や、当然にもはや労働にふれることはできない」。それで結論を「同一の労働は、同一の期間に生産力がどう変化しようと、常に同一大きさの価値を生む」のです。                      「生産力は、同一期間に違った量の使用価値をもたらす。生産力が増大すればより多くそれが低下すればより少ない。労働の生産度を増大させ、これによってもたらされる使用価値の量を増加させる同じ生産力の変化は、このようにして、もしこの変化がその生産に必要な労働時間の総計を短縮するならば、この増大した総量の価値の大きさを減少させる。逆の場合は逆となる」。

 最後のセンテです。「労働」と「価値」、「使用価値」への関係のまとめです。 「すべての労働は、一方において、生理学的意味における人間労働力の支出である。 そして、この同一の人間労働、または抽象的に人間的な労働の属性において、労働は 商品価値 を形成する。                            すべての労働は、他方において、特殊な、目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そして、この具体的な有用労働の属性において、それは 使用価値 を生産する」。

 次号は「第3節 価値形態または交換価値」を発信します。