資本論のための発信No7号 沖縄「資本論を学ぶ会」

  将来の社会を考えよう! 社会の矛盾に目覚めよう! 資本論を学ぼう!

 今回の7号は、「四 単純な価値形態の総体」を行います。併せて、マルクスのクーゲルマンへの手紙を紹介します。それは「価値」と言うものを考えるに参考になるだろうと思います。

 「単純な価値形態の総体」の1パラにおいて、今までの一から三まで説明してきて、商品と言う定義的なものが、変更、差し障りのないこと、説明されています。

 「商品は使用価値であり、また交換価値である」⇒「正確に言えば誤りであった」      「商品は使用価値または使用対象であり、また『価値』である」⇒「正確に言えば」 このことをマルクスは、「商品はこの形態を、孤立して考察する場合持っているのでなく、常に第二の異種の商品に対する価値関係、また交換関係においてのみ、持っているのである。だが、このことを知ってさえいれば、先の言い方は無害であって、簡略するに役立つのである」と言っています。厳密に思考するマルクスです。

 

 次は、俗流経済学派に対する批判を行っています。もちろん価値について。  「我々の分析の証明するところによれば、商品の価値形態、またはその価値表現は、商品価値の本性から出てくるもので、逆に価値や価値の大きさが、交換価値としてのその表現様式から出てくるものではない」と、「逆に」以下の文に留意しよう。     重商学派、フェリエやガニー ⇒「近代の蒸し返し屋たちの妄想」         上記対象者のバスティア   ⇒「近代自由貿易の外交員たちのそれでもある」   重商学派 ⇒「重点を、貨幣として完成された姿になる商品の等価形態に置いている」近代自由貿易外交員 ⇒ 「重点を相対的価値形態の量的側面に置いている」    彼らをまとめて批判し、「彼らにとっては商品の価値も価値の大きさも、交換関係を通した表現以外には存しないし、ただその日のその日の時価表の中だけに存する」。

 

 次に、「商品Aの価値表現を詳しく考察」する結果は、            「内部において」 「商品Aの自然形態は、ただ使用価値の姿としてのみ」        

         「商品Bの自然形態は、ただ価値形態または価値の姿としてのみ」

「外的対立によって」「二つの商品の関係によって示されている」

「この関係において」「一方の商品は直接にただ使用価値」「直接に交換価値として」

「それ故に、ある商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態である」

 

 次は、労働生産物・商品を使用価値と価値から、どの段階で発生するのかを問う。「労働生産物は、どんな社会状態においても使用対象である」、それは誰もが知る。 しかし商品は、「歴史的に規定された発展段階のみが」「価値として表す」「労働生産物を商品に転化する」。「このことから、商品の単純なる価値形態は、同時に労働生産物の単純なる商品形態であり、商品の発展も価値形態の発展と一致するという結果になる」。

 この「A単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」は、貨幣・金に向けて進めて言う上に、第3節での中でも極めて重要なところだと思います。何故なら、貨幣への必然性が見えてくるからです。これを眼力が必要だと思います。だが私ができるかと言えば、自信はありませんが。

 以下の説明は、「B」への移行に向けての準備になっています。次号は「B 総体的または拡大せる価値形態」を行います。

 そこでスペースが開いていますので、価値に関して、マルクスからクーゲルマンへの1867年7月11日付けの手紙を紹介します。参考になると思います。

 「どの国民も、1年とはいわず2、3週間でも労働をやめれば死んでしまうであろうということは、どんな子供でも知っています。また、種々の欲望量に対応する生産物量が社会的総労働の種々の量的に規定された量を必要とするということも知っています。この、一定の割合での社会的労働の分割の必要は、決して社会的生産の特定の形態によってなくされるものではなく、ただその現象様式を変えるだけだということは、自明です。自然法則は一般に廃棄されるものではない。歴史的に種々に異なる諸状態のもとで変化しうるものは、かの諸法則が貫かれる形態だけです。そして、社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会状態において、かような一定の割合での労働の分割が貫徹される形態、それがまさにかような生産物の交換価値なのです。

 いかにして価値法則が貫かれるかを展開すること、これこそが科学です。だから、外観上法則に矛盾するあらゆる現象を初めてから『説明』しようとすれば、科学以前に科学を与えねばならないことになるでしょう。リカードが価値に関する彼の最初の章で、これから展開されるべきあらゆる可能な範疇を与えられたものとして前提して、それらが価値法則と合致していることを論証しようとすること、彼の失敗はまさにここにあるのです。」

 「この俗流経済学者は、現実の日常の交換比率と価値量とは直接には同じではありえないということには、いささかも考えつかなかった。ブルジョア社会の妙味は、まさに、生産の意識的な社会的規制が本来行われないということにある。理性的なもの及び自然必然的なものは、ただ盲目的に作用する平均としてのみ貫かれる。そこで俗流経済学者は、内的関連の暴露に対して現象では事態がそれとは違って見えることを、とくとくとして主張することによって、一大発見をなしてたと信じている。彼が自慢していることは、実際には、彼が外観にとらわれていてそれを究極のものだと思い込んでいるということです。それならば、そもそも科学なるものは何のためのものでしょうか?

 しかし、事柄はここではもう一つ別の背景をもっています。関連の認識とともに、実際上の崩壊よりも前に、現存状態の永遠の必然性に対するいっさいの理論的信念が崩壊してしまう。だからここでは、無思想な混乱を永久化することが、支配階級の絶対的利益なのです。そして、それ以外に、追従者的饒舌家たちに報酬が支払われる何の理由がありましょうか、この経済学ではおよそ考えることはいらないのだという以外には何一つ学問上の切り札を出すことができない饒舌家たちに?

 しかし、もうたくさんです。とにかく、いかにこれらのブルジョアジーの坊主どもが堕落していようとも、労働者たちは、そして工場主や商人さえも、私の本を理解し、そこに正しい道を見つけたのです、これらの『文書学者』(!)が、私が彼らの悟性に全く不当なことを求めるといって嘆いているあいだに。」

 今でも、マルクスを利用して、捻じ曲げて、それらしき書籍を出版して、金もうけに精をだす、たくさんの学者たち。マルクスそのものの文書を読んで深く理解を掴み取ることが労働者に必要です。